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実   家

2017年8月20日 (日)

初  盆

母は、’父の死以前にしていたこと’を踏襲しています。 父と一緒に行ってた月一回のコンサートに行き、父と事務していた退職互助会や手品の会に顔を出し、ハンドベルの練習や診療所など病院・講話の会・マッサージに定期的に行く等々。 マッサージ以外は父と一緒に行っていたところ。 まるで父が、自分の死後も母が行ける所をつくっておいたかのよう。 母は、いつも文句言いながらついて行ってたんですけどね。

変わったことは、たぶん月に一度の父の墓参と地域包括センター(?)から週に一回家事支援の人が来ること。 生協のこっこ便も週に一度やって来るので、それはそれなりに行く所や会う人達があり、ちょっと安心です。 私も、仕事後の電話で、しんどくなかったら一日に1ケ所、どこかに行けたらええなぁ、と日々言うてます。「そうやなぁ。」と返す余裕が、母にも出てきました。

けれども、

去年まで父と言ってた本家の墓参。 今年は私と2人で行きました。 JR京都駅のホームで待ち合わせ。西舞鶴に到着後、タクシーでお墓へ。母は難聴なのに、蚊の鳴くような声で、しかも口を動かさずに話します。 タクシーに乗り込んだら、運転手さんも補聴器をつけておられました。 そして、トラブル。

母: 花を買って行きたいんですけど。。。

運転手:花屋さんに行かれるのですね。

私: ぁ。墓参りに行くための花を、まず、買いに行くんです。

運転手:お寺の近くの花屋さんですね。どこですか?

母: お寺じゃないんです。 あの、花屋に。。。

私: お墓はお寺の中にあるのじゃなくて、山の麓にあるんですけど、駅前でしか花を買えないと思うんで、、まずここらへんの花屋で花を買いたいんです。

ということで花を買いまして、次はお墓です。 私はお墓がどこにあるのか、細かい道(そのあたりの地理)を知りません。 

運転手:お墓はどこですか?

母: え~っと。

私: 万願寺さんの方向とちがったっけ。

母: ちがう! 万願寺までは行かへん! 

私: けど方向としたら、万願寺さん方面やろ? 万願寺へ向かって運転してもろたら、わかる?

母: わからん!

運転手:そっち方面へ行ってみたら、わかりますか?

母: 行ってみたら、わかる。 あーあ、年寄りが、話す気なくなるのがわかるわ。そんなに次から次と話されたら、せわしぃてかなんわ!

despair、、、ということで、なんとかお墓のある、私にも見覚えのある田んぼのそばに到着。 あぜ道を少し登った小山のきわに、ご先祖様のお墓が並んでいるんです。 2年前、父と3人で来た時、父はこのあぜ道をハァハァ息切らしながら杖ついて歩いてたっけ。。。雨が降ってきてました。 ドアが開いてから、レインコートに着替え始めた母。 それを、気長に、嫌な顔ひとつせず待つ運転手さん。

行ってみると、なんと、お墓前の田んぼごと、猪避けの電気柵で囲まれていたんです。 impact危険impactなんて表示も。 感電したらタイヘン! どーしよー~~~と、ふり向くと、母がいない!  どこへ行った?sad だれかの助けを求めに行ったことはわかるが、このぬかるんだ狭いあぜ道ですべってこけたら? いったいどこ行った? 

タクシーまで戻ったかも。と、タクシーまで下るも、こっちにはだれも来られませんでしたよ、と運転手さん。 えーーーーっ、どこ行った? 

タクシーと私以外、だれも居ない。 し~~~~ん。 ただ、雨が降る。 

どーしよー。と、電気柵まで戻ろうとしたとき、上の方から女性の方と元気にしゃべってさっさと歩いてる母の声。 出るんやん、声! 歩けるんやん、さっさと!pout

地元女性の方に、電気柵の外し方と戻し方を教えていただき、雨の中、線香の束に火をつけ、ロウソクにも火をつけ灯籠に立て、花を供え、数珠とりだして手を合わせました。 用水路で私がバケツに汲んでおいた水は、「雨降ってるし、水はあげんでもええやろ。」とジャッと捨てる母。 ま~そうなんかもしれんけど。。。

というわけで、待機していたタクシーでまた駅前にもどり、昼御飯を食べ、京都に170816_2013帰ってきた墓参でした。 

.

.

先日の送り火。16日。 うちからちょこっとだけ見える舟形の帆を見ながら、父たちを送りました。今まで、五山の送り火というと夏の終わりの心の区切りでしかなく、夏の夜空に見える花火を見るような感覚でした。

今回、父は、初めてあの世から戻ってきて、街をあげての山々の火で送られるんやなぁと、思ったことでした。

2017年3月26日 (日)

ごちゃまぜごころ

思えば3月は朗読レッスンも行けずじまい。しかたないね、こんな時だもの。

 

と、自分に言い聞かせていた(いえ、家でも練習する心のゆとりがなかった)ところ、先日、母が言った。
 「ハンドベルのレッスンには行ってきた。1回でもレッスンが抜けると忘れてしまうからな。」

 

(・_)エッ....?  ・  ・  ・  。  はあ~~~~?  
 
しかもそれは通夜のたった1週間後だったらしい。

 

また別の日には
 「四十九日が済んだら早く納骨を済ませたい!」
 じゃ、次の日にでも
 「次の日はあかん。京フィルの演奏会に行く。」 

 

はあ~~~~? (゚Д゚)ハァ?  ハァ?
どーゆーこっちゃ。 母はこんな時に趣味が第一かぃ?
まぁ。。。ハンドベルも京フィル鑑賞も、いつも父と2人で楽しんでたことなので、それも関係あるのでしょうか?
しかし私は、父の死に関わる一連のことや、それにまつわる母・弟の言動や、自分の食い扶持(父が私に残したものdollarについての話は全く出ない)のことでアタマがいっぱいのこの数週週間だったことを思うと、なんだか胸にストンと落ちてこない。アタマで理解できない。これは私自身の性格のモンダイか?

 

こころがごちゃまぜ状態。とにかくココロを少しでもスッキリさせたい。

 

と、
あろうことか、私は平安神宮へお参りに行った。帰宅後PCで調べてみたら、喪中50日は神社へ入ってはいけないとか。知らなんだ~。 50日過ぎたらまた謝り参り(?)に行こう。
と、

見つけた聖書。 音読してみた。 これは、いいのだったか?  
そしてここ数日、起床後の自己流瞑想タイムも。 

あ~とにかくココロを少しでもスッキリさせたい。170320__2

そこで見つけた袋麺note。ひと月ほど前、職場でタイ土産にもらった袋麺。「と・・・・・っても辛いですから、家で食べたほうがいいですよ。」と言われ、持ち帰った袋麺。 そうだflair、おいしいものを食べてみよう。
 
辛すぎて食べられなかったらもったいない。 念のため、ラ王とコラボさせた(混ぜた)。  添付のタイ調味料は4分の1だけにした。 

 

ラーメンもごちゃまぜ。

 

めっちゃ辛かったbearing
けど、心が数分タイへ飛んだ。
これはどんな店で売られていたんやろう? タイの人達は、これをどんな顔して食べたはるんやろう? 

 

そうや。
タイは微笑みの国や。

いま私はこれでええわ。

 

けれどココロは未だごちゃまぜ。。。
どーしたらええん? やっぱり時間薬っちゅうやつですかね。

2017年3月14日 (火)

ワシがワタシがもう知らん。

弟は高次脳機能障害です。同時に数種類のことを並行して考えたり実行したりできません。聞き言葉と読み言葉の理解が、複雑で長い文章になると困難です。原因は仕事中の事故。退院し、おかげさまで今では普通に一人暮らしし日常会話しアルバイトも見つかったようです。でも、能力的にはもうあまり回復しないことが、父の葬儀でわかりました。 しかも、弟は自分の欠けた能力について無自覚。これが、高次脳機能障害のやっかなところなのだそうです。

母は85歳と半年。弟が退院したころ、右腕を骨折し手術入院。固定するための金属はまだ腕の中に残っていますが、取り出し手術が老人の身体に負担がかかるということで取り出していません。認知症ではありませんが、まぁ老人ということでたまに言うことがヘンだったりします。 難聴です。 ひとに頼るのが嫌いで頑固さが最近増してきてます。

この2人といっしょに、今回の通夜・葬儀・料金等々の打ち合わせや説明が、父がセレマの霊安室へ運ばれた直後(深夜)・次の日(通夜の前日)・当日2日の時々・葬儀の次の日、と続きました。 私達3人は、父を霊安室へ送り届けた時点でもう体と心が疲れていました。私も頭が朦朧としていました。

私達3人が並ぶと、セレマの職員さん達からしたら、熟年の男性つまり弟が、打ち合わせのメイン(窓口)であると思われます。 

弟も今回、自分は長男であるので、中心になって動きたい・しきりたい。 
母は、夫が亡くなったら連絡は自分でしたいし、夫がしたかった形式で通夜・葬式をしたい、とだけ思っている。
けれど、トントンと進めていこうとしているセレマの方は、たくさんのことを説明し、決めていかねばならない。

最初は私も「ゆっくりとはっきりとしゃべってやってください。」と母の難聴を理由にお願いしていたのですけど、それでは葬式・初七日までとてもじゃないけど終わらないことに気づいてきました。 弟は、わからない。母は、聞こえない。両人とも、興味のあるとこだけしか覚えていけない。

たとえば、、、、

【エピソード①】  通夜の前日。 病院への支払い等で、弟がさんざん「ワシがする」と主張したので、言い合いの末、私は引き下がることに決めたその後で。  *セ=セレマの担当者

セ:今回、親戚などへ連絡されたのはどなたですか?

母:私です。

セ:通夜・葬儀・斎場へはそれぞれ何人ぐらい参加されるのでしょう? 料理や供養や斎場への車の手配もありますので。

母:そんな失礼なこと、いつまで参加してもらえますかなんて、とてもじゃないけど聞けへん!私もいままでそんなこと尋ねられたことないわっ!

セ:だいたいで・・・・・。

母:だいたい、も、わからん。

セ:昨夜、連絡するときに尋ねてくださいと、お話してたかと思いますが。。。

母:もー知らん!そんなん言うんやったら勝手にやって。(と、部屋を出る)

セ:それなら、どちらかが電話で聞いていただけますか?

私:弟がするそーです。(私もまだ腹を立てている)

弟:じゃぁ、ワタシが。(満足気)

私:ほんまにできるん? ちょっと練習してみよか? 言うことわかる?(と、セリフをメモして弟に渡す)

弟: (うまく言えない)

母:そんなこと、さしてやらんときっ!

やっぱりあかん。 と、ここで私がセレマ担当者の方へ、弟の高次脳機能障害を伝えました。 担当者の方はちょっと戸惑われたようでしたが、なんせ決定することは山ほどある。決めて所業者へ発注もかけなければならないのでしょう。 窓口は長女(私)と、されたようでした。でも、ふたりのいるところで話を進めないでいるとまた「聞いてない。勝手に決めた」となってやっかい。 二人に居てもらい、時々、繰返し説明と確認をとりながら、セレマ担当者と目くばせしながら、母の話を聞きだしながら、どうにかこうにか、予想で人数を多めに決めました。

【エピソード②】 通夜式の後の食事会で。

この時も、まだ決定しきれてないことや確認したいことがあって、私はセレマ担当者とたびたび話をしていました。また、来ていただいた方々の話(父との関係や思い出話)を聞くのも私でした。 

こんな、父が亡くなったときにも、おなかはすくんですねぇ。ペコペコでした。あー早く座って一口でも二口でも食べたい飲みたい。と思いながら、明日の、親族代表のお礼の言葉も私が言うことにして、相談していると、それまで親戚の方々と話しながら寿司を食べていた弟が私達を見て、こっちにきました。

弟:あの~。聞きたいことがあるんですけど、、、。

セ:(私との間に入ってくださって)なんでしょう。なんでもどうぞ。

弟:柩の中にあの桜(壇にかざってあった)は入れてもらえないんですか?

セ:枝がいっぱいありますからねぇ。身体が傷ついたりするからあまり枝ものは入れないんですけど。 花屋といっぺん相談してみますね。

と、弟は納得してまたテーブル席へ食べに。 そうこうしてるうちに食事会も終わってしまい、私が、残ってる寿司をこっそり食べようとしていると、弟も真似して立ったまま食べ始めました。 みんなが帰ろうとしているときに、故人のこどもふたりがテーブルの残り物を立って食べてる図。 悲しくなって、小皿に急いで盛り、親戚の方々を見送りにいったのでした。姉は食べられなかったんだから見送りは自分が、という判断、してほしかったなぁ。

私が担当者と打ち合わせしていると自分もなにか話そうとしに来る。私が食べようとすると、満腹にもかかわらず自分も負けじとまた食べようとする。 おんなじことを「ワタシもできる」という自己表示なんでしょうか? 私が出ると弟が別のことで出てくるから担当者の仕事が増える。私が引くと、弟も引いているから当然なにも進まない。

次の日、葬式の後、母がセレマへの文句を、私に言いにきました。
「なんで、桜なんか柩に入れるんやろう、セレマは。 あんなもん入れるの、見たことない」と。

担当者の方は、弟の意をくんで、花屋に桜花の部分だけを細かく切ってもらえるよう頼んでくださったのでした。

.

他、病院でもお寺さんの前でも、区役所等の後始末(手続き)のことでも、いろいろいろいろ。。。。。。 いろいろいろいろ。 私にすべて任せてもらえた方が、少なくとも頭はこんなにコンランせずに済んだものを。二人とも、自分がやりたいもんで。 自分でできるように繰り返し時間をかけて私から説明し、メモを作り更新し、じっと見て待つ、時には怒りながら。ううううぅ。

悲しみや喪失感よりもアタマが疲れてなにがなにやら状態。
息子がすぐに駆けつけてくれたのがなにより有難かった。
頑固な老母とややこしい弟が残って、私の立場を理解してくれてた父がいなくなって、
 これからどうしたらええんやろう?

父の死と父の人生に、ひたすら思いを馳せたいです。

こんなときに不謹慎だとは承知の上で、「なに甘いこと言うてるんや、ひとりだけ苦労したみたいに」と思われることを承知の上で、書かずにはいられませんでした。アマイなぁ。

2017年3月12日 (日)

よう見ときや。

草木や花の名前を私にたくさん教えてくれたのは、父でした。 

 

昨夏、息子のスマホを通して家の中にポケモンが居るのをのぞき、
「こ~んなもんが見られる時代にまで生きてられてよかった!」
と笑顔の父でした。
けれど、2回目の東京オリンピックも一緒に見てやぁという私の言葉には返事を濁していました。

 

もういつ命が終わってもおかしくない、と病院で宣告されてから3年ちかく生きていてくれました。最近は肺癌(余命約半年)も発覚。 さぞや恐ろしかったことかと。。。

 

あの朝、母からTEL。「おじいちゃんが救急車で搬送された。もうあと時間のモンダイらしい。」
看護師さんがTELを変わったようで「時間ではなく、分を争います。すぐ来てください!」

 

思いつくものを持って、車で病院へ。 

 

病院の中の一番良い個室で、朝着ていた服のまま、父はうなっていました。父のそばに寄ろうとすると弟が
「医者の話を聞きますか?ワタシはさっき聞きました!」

え?そんなのもうだいたいわかってる。直径10センチにも膨らんだ腹部大動脈が破裂したのだ。もう助からないのだ。最期の数分かもしれないのだ。もう生きた父には会えないかもしれないと思いながら車を運転してきたのだ。医者の話を今更聞く場合やないやろ。と、思ったが、父を見ると苦しんではいるが‘あと数分’ではないようだったので、とりあえず当直の医師のところへ。

 

話を聞くというよりも、医師に「生きる時間が短くなってもいいから、とにかく今の苦痛をやわらげてやってほしい。それは本人からも以前から何度も伝えられているから。」とお願いしました。

病室へもどると、父は「痛い痛い。だるい。しんどい。」と何度も訴えて(つぶやいて)いました。母・弟と3人で背中や腰をさすりました。痛み止めの薬を入れてもらったのですが、「なかなか効いてきぃひん。痛い痛い。」と父。

この時はまだ会話ができましたので、私は「ここ上等の部屋やでぇ。」とか「さっきな、室温が28℃やったわー。」とか「御池中学の横の桜はもう咲いてるらしい。」とか、父の気のまぎれるようなことを脈絡なく話し続けました。父は痛いだるいしんどいの合間に「へ~。」とか「ほんまか。」とかの相槌をうってくれました。 あんなにしんどい最中に「ああ、そうやって扇いくれたら気持ちいいわ。ありがとう。」と言うてくれました。 

母は難聴なので(補聴器は持ってきてなかった)父がなにか言うたび「今なんて言うてるん?」と聞きます。 私が大きな声で父の言った言葉を繰り返しました。

数時間後また痛み止めを。すると父は少しラクになったようで午後すこし眠り(?)ました。
弟が「ワタシは少し帰って休んできます。帰るなら今のうちやろ。母(呼びかける二人称でも弟はこう言う)も、いっぺん帰ってきたら?」と言い出したので、
えええぇぇー、分を争っていたのではなかったのかーと私は思ったのだけれど、母も「ほんなら補聴器と電話番号書いてある紙とケータイの充電器をとりに帰りたい。」と言い、交替で帰ることに。(これでよいのか?父は良くなったのではないんやで。)

夕方。痛み止め効果がきれてきたようで、また苦しみだしました。実家から父のパジャマも持ってきていたから、少しでも体がラクかと着替えさせました。「息が苦しい。ベッド(上半身)を上に傾けて。下に傾けて。あつい。」と訴え続け、体は冷たいのに汗をかき、だんだん肌が黄色くなっていきました。私はベッドを上に下にとリモコンを操作し続け、母は父の額に置いた濡れタオルを交換し続けました。

そのあたりで、夜の当直の医師が来られ、もう少し強い痛み止めをとお願いしてる間に、父が静かになり、見ると目の焦点が合わなくなっていました。痛み止めや酸素吸入が先だったのかもしれません。じっと私の顔を見ているようでしたが、たぶん見えてなかったんやろなぁ。

看護師の方が「最後までいきているのは聴覚ですから、話しかけてあげてください」と教えていただいたのですけど、なにを話していいのか。 母といっしょに、父がよくハーモニカで演奏していた曲を歌い続けました。「ふるさと」を歌ったときは、右手で弟の手をぎゅっとにぎり、なんと私がさすっていた右足が拍子をとるようにヒョンヒョンと動きました。何曲か歌ったころ、息をしなくなり、しばらくして、心臓も止まりました。

ああきょうは長い一日やったね痛かったねと、母が父に言いました。

夜の9時半でした。

人間が死ぬところをよう見ときや、ちゃんと見たか、と父が言った気がしました。父が、私に最期に教えてくれたのは、これなんやな。
うん。ちゃんと、見たで。

と、気持ちをかみしめる間もなく、死亡診断書は何通いりますか?どこの葬儀屋さんに来てもらうか決めておられますか?という話に。
「もいっぺん帰らなあかん。電話番号がわからへん」と母。
夕方とりに帰ったやん。
「あれはな、明日おじいちゃんと行くはずやった音楽会に行けへんからその連絡をせなあかんと思うて。」
したん、連絡?
「したよ。」

・・・・・。いつのまに。。。。
「じゃあワタシもいっしょに実家へ行きますpaper
と弟が言い出したから、父を置いて三人でこの場を離れたらあかんことを説得し、葬儀屋へ連絡するべくまた実家へと車を走らせたのでした。

2016年10月 1日 (土)

避難指示 w(゚o゚)w

よう降りますねぇ、雨rain。 ほんまにもー洗濯もんは乾かへんし、床や畳は湿ってきしむし(タイヘン!シンコク!)、不快指数はハンパないし、通勤途中の服はぬれるし、なにより昼もずっと暗い! ここ数年は、降りこめられて家の中で雨の音きくのもいいな~と思い始めてたんやけど、、、、、返上! やっぱりこう降り続くとたまりません。 そやからこそ、まあ、たまの青空がとってもうれしく感じることもできるんやけど、、けどもーこのへんで止んでくれへんかなぁ。 

先日、帰宅後ヘロヘロで、TVもPCも目ぇと頭が受け付けず、もう寝るべしと布団敷いたとき、ふと気になった。 雨はいつまで降るんやろう。 おりしも外は相変わらずの雨。 詰まったトユから雨があふれ出し、庭に直接ボトボト落ちる音がすさまじい。

PCを開けると、Yahooのホームページに、どーーんと雨の危険情報。 なんと京都市にも! 京都市の、どこやろう。 

なんとなんと、実家のある地区に避難指示が19時ぐらいに出てた。 その時すでに22時。 父母は、どうしたやろう。 避難したんやろうか? それとも、もう寝てるんやろうか?

気になったからTEL。長い呼び出し音の後、母が出た。 

起きてた?起こした? それとも今から避難するとこやった? 避難指示が出てるで!

「知ってる。避難指示が出てからも~だいぶん経ってるけどな。」

避難しぃひんの?

「そんなもん、しいひん。」

どもないんsign02

「この雨の中、どうやってどこまでお父さん連れて歩いていくん? そのほうが危ないわ。」

近所の人はどう? 動いたはる?

「だーれも、たぶん。 それより、そっちのほうが心配や。比叡山もあるしまわり田んぼやし家は坂の途中に建ってるやろ?」 

そ、そうやな。。。 もーええかぁ? こっちは避難指示出てへんから大丈夫や。比叡山も大丈夫。 と、母の心配事がかえって増えるから早々に電話をきった。

考えてみれば、

避難指示や避難勧告が出たって、高齢&重病人は、動けない。 晴れた日でも、電柱と電柱の間を歩くのに息がきれ、動脈瘤のため家の中でもそぉっと動いている(自宅療養してる)父であるのに、難聴&骨折した腕に金属の棒(?)を残したままでこれまたそろりと生活してる母であるのに、豪雨の中、傘さして遠い避難所まで歩くのは無理やん。 

日を別にして避難勧告が出た久多などは、動けないご老人宅を車で拾ってまわったという話を聞いたんやけど、人口の多いとこやったらそんなんもムリやわなぁ。 ほんまに危険になったとき、いったいどうしたらいいんやろう。 危険を知らせた後のことは、被害が出るまでは、本人責任となるんやろうか?

私も今までは、父母の病気や寿命そのものばかりを心配していたけれど、天災などの場合、どうしたらいいんやろう。 私は、どうしたらいいんやろう。 と、あらためて考えてしまいました。

ほんま、雨、多いなぁ。 もうこれぐらいで勘弁しといてほしいわ。

2015年11月17日 (火)

返 却

その後、弟から「話したいことがある」と連絡あり。 それなら私も話をしておこうと、両親立ち合いのもと話し合いの場をもちました。 

予想通り弟からは「すべて返してほしい」でした。弟は、今後の失業(雇用)保険申請(今からできるのか?)や後遺障害のアフターケア請求(労災)のことなど、結構くわしくしっかりと話したし、確定申告も自分でするとのこと。 医療控除の資料もPCで作成してきていました。

「そんなに(精神的に)しんどいなら親に任せて」という、先だっての父の言葉にもう甘えてしまおうという気も。 ただ、私から見たら父・母・弟が3人とも同じような感じ(時折すこしチンプンカンプンな受け答え等)だし、3人同じならといっそのこと本人に返すことにしました。 もーいいや!えいって、心が踏ん切りつけた(逃げた、と言うべきかも)。 

前もって誓約書を作って持参。 誓約書は公正証書ではないけど、抑止力にはなるだろうと思ったんです。 ひとつひとつの項目を私が読みあげて弟に確認。 ICレコーダーをON。 

ひとつ項目を読み上げるたびに、自分が誤解されていると思うのかどうなのか、やはりヘンな弟の反応にいちいちちょっと不安。 

たとえば、

「以下のことを厳守します。一. どんなに親しい人が困っていても、保証人にはなりません。」と私が読み上げると、
「そんなこと今までしたことない。周りの○○さんも△△さんも**さんも@@くんもみんな‘保証人にはなったらあかん’って言うたはる!」
「・ ・ ・ そしたら、これはこれで、‘今後もしない’ということでええんやな。」
「はい。」

こんなふうにして、全9項目を確認後、サインの横に実印と拇印を押してもらい、返却。

運転免許証は、昨今の、脳の病気等による交通事故が多発し話題になっていることもあり、私が預かることに。 弟の説明した‘後遺障害のアフターケア’というのは、「病院から、てんかん薬を一生服用するようにと言われている。」ということなのでした。 

弟は「顔写真つきの身分証明書が要る。」と抵抗(?)しましたが、「運転免許持ってない人達も健康保険証で事足りてる。顔写真つきなら障害者手帳がある。期限がきたら更新すればよい。」ということと、「万が一 事故を起こしたとき、責任を問われるのは、事故する可能性があると知ってて免許証を返した姉である」ということを時間かけて説明し、なんとか納得してもらいました。 

そんなこんなで、

弟からの「お金 振り込んでください。」「全部 返してください。」からは、離れられることになったのですが、すっきりしません。 この話し合い後も数時間、心臓の動悸が治まらず、困りました。 不安・ふあん・フアン・・・・・でおます。  まぁ、自分で決めたことだから、しょうがないですね。 またなにかあったら話、読んでくださいませ。

2015年11月 9日 (月)

高次脳機能障害

弟は昨年夏、仕事での転落事故のため通算8か月弱の入院後、通院しながら休業補償(労災)をもらい、現在は一人暮らしをしております。 

事故後は‘赤ん坊のよう’と書きましたが、その前(事故直後)は実はゾンビのようでした。 沈静(?)の点滴を減らすとウォーーーと叫び起き上がる、ただ動物としての意識があるのみでした。 しばらくしても、入院していることがわからず、仕事場所に閉じ込められていると思い込み脱走を繰り返し、また他の入院患者さんの点滴などを触って(仕事として?)周ったので個室に入ったりもしました。 そんなことを思うと、本当に奇跡的です。 ありがたいことです。 皆さんの励ましの言葉は、しんどい私の心の支えになりました。 ありがたいことでした。

弟は、このたび休業補償金を打ち切られることになりました。 弟からのショートメールでは、「監督署で面接した結果、治癒と認定したので休業補償給付は11月で打ちきりです」と書かれてありました。 この’治癒’というのは、もうこれ以上良くも悪くもならない、つまり‘症状の固定’ということなんだろうと私は思うのですが、弟は「私はまともです」だそうです。 現在、高次脳機能障害として障害者手帳(3級)を所持しています。 

普通にしゃべれるし自分のこともできるし計算OK地理的感覚OK、事故当時のこと以外は記憶もある。 ちょっと付き合っただけではもう’元通り普通(?)の人’で、障害をもっていることはわからないのですが、やはりじっくり話していると、な・・・・・んかヘンです。 ん?、そこやないやろ。。。って感じ。

たとえば、

あなたが脱走するたびに仕事に支障があったし、病院や警察と連絡とれるのは仕事終わりの車運転中(夜の8~9時)で、 実際私があなたのかわりに警察にサインしにいったりした。 今年の3月ぐらいまでは昼休み返上であちこちに電話連絡した。タイヘンやったんや~。

と言うと、弟の反応は

「そら、病院に閉じ込められたら、だれだって逃げ出したくなるやろ。」

でした。 ふつう長い入院後にそんなことを知らされたら、わーーどうしよう! タイヘンな迷惑をかけてしもた。 申し訳ない! となると思うのですけど。。。。。。。弟が’申し訳ない’と思った相手は、会社の社長と 見舞いに来てくれた飲み屋常連仲間でした。 

なんというか、言葉通りにしか受け取れないところもあるようです。 聞いたことから相手の気持ちやその時の様子を想像することができないというか。

先日は「小学校の時に直した前歯が黒ずんできたからセラミックにする予定。136500円ですので振り込んでください。」  とのメール。 前歯1本=十三万六千五百円ですよ! びっくりです。 私の先月の生活費以上です。 以前の稼ぎがあっての話ならともかく、失業中で再就職もできるかどうかわからない今、です。おそらく歯医者は良いものをと勧めたのでしょうけど。 その言葉通りに受け取ったようです。 

弟の貯金は、退院時、病院の方にも立ち会っていただき、1年間私が管理するということになっています。 ひとつのキャッシュカードだけを渡し、その口座に月々入金・振込しています。 が、将来、弟が以前の金銭感覚で、または人の言われるままに(将来のことを考えたら、少々高くてもオトクですよ~、とか)お金を使っていったら。 信用できる人に借金したとして、本人の知らないところで悪徳業者にその借用書が渡ってしまい、私を含め親戚にイヤガラセをされたら。。。。。なんて、不安がどんどん大きくなってしまうのです。

今回は、「歯を直してから、就活する」ということなので、その意欲を買い、とりあえず入金しましたが、不安でどうしようもなくなり、実家の両親へ電話してしまいました。 弟にちゃんと話せばいい、起こってもいないことを考えてもしょうがない、などと両親は言うので、
「こんな金使いは就職してからするように、親として言ってほしい。何度も何度もいうてほしい。私の不安は生きてる以上ずっと続く!」
と、春に骨折入院した難聴の老母と 動脈瘤・大腸癌・肺気腫でもう立ち続けるのがしんどい状態の老父に、キツクあたってしまいました。

そうです。 両親の言うとおり。 まだ起こってもいないことは、だれにも相談しようがないのです。  私の言葉で、両親の具合が急変したらどうしよう、とまた別の不安。

自己嫌悪の極致。
けれど、
どこまでも続く 不安の重さ。 

ごめんなさい。 いまさらですね。 この記事が、重かったですねdown。 読んでもらってありがとう。

2015年3月15日 (日)

次は、母。

あした母が入院する、と今日はじめて聞いた。 

「一週間前、北野の梅を見に行ったときな、トイレに急いで行こうとしたらこけてな、骨折してん。そいで、日曜やったから救急病院に行って、そこでお父さんが動脈瘤でお世話になってる病院に紹介状を書いてもらって、月曜日に行ったら、また別の醍醐にある病院に紹介されてー、そこで一週間後に手術しましょう、ってことになってん。螺旋状に骨折してるんやって。全身麻酔で手術するんやって。」

一週間前の骨折を、タライまわしされたあげく、全身麻酔で手術、って、どう思います? この一週間、特に固定もせずに腕吊ってるだけ。上腕を骨折した右の手は、むくんで色が変わってきてるし。

その時連絡してくれたら、ちゃんと医者の話を私も聞けたのに。。。 とは、言えず、詳しいことを聞こうとしたら、母が泣きだした。 いつも私から弟の愚痴とかしんどい~~とか、聞いていたから、これ以上私に連絡できなかったんだろうなぁ。

とりあえず、明日は午後から出勤ということで、早朝に実家へ行くことに。

隣で聞いてた弟いわく、
「オレが病院まで一緒に行ったろか? 北野、やろ?」
ちゃうで、それは骨折した場所! もーあんたはちょっと黙っといて!

隣で聞いてた父いわく、
「わしは歩いたらあかんけどタクシーで見舞いにいくし。料理もできる。包丁はどっちを使ったらいいん?」
と、2本の包丁を両手に持って家の中を歩く。

あーーーーーー、
♪どぉ~~~~~ぉすりゃいいのぉ~~~~さ、
こぉの~~~ぉぉ わーたぁぁしぃ~~~♪

もー叫ぶ歌う唸る、しかない。

仕事もまだ十分に覚えられていないのに!!

2015年2月22日 (日)

ひとつずつ。ひとつずつ。

はぁ終わったdash、確定申告。 いやこれは、私の、です。 昨年は仕事4つを転々といたしました。 年末調整時期には無職でしたから、今回は初めてすべてを自力で申告するっちゅうことになってしまいました。 できるだけ平日の勤務時間を減らしたくないので、今回は国税庁HPの確定申告書等作成コーナーを利用。 意外と簡単でしたpaper。 2時間でできた。 プリントアウトして、源泉徴収票4枚と保険会社から送付されてきていた控除資料を添付し、コーナンで買ってきたA4角封筒に入れ、税務署へーーーrvcar。 『時間外に書類をお持ちになった方はここへdownwardright』のところに放り込みました。 ほんまにここに入れてダイジョーブやろかぁ、、、、と、いっぺん中をのぞき込み、帰ってきました。 明日は、銀行から弟に送金する日だから、郵便局で税務署まで郵送する時間は昼休みにとれないだろうな~と思って。

今日はもう一つ、弟の労災休業補償の用紙を厚生労働省HPからさがし、どうやって請求したらよいのかを むむむeye・・・・と研究。 この半年間は、彼が所属していた会社が請求してくれていたのですが、弟が退院して「うちではもう働いてもらう職種がない」と宣告され退職したので、これからは自分達でやらねばなりません。 ゆくゆくは弟本人に請求手続きをしてもらい、失業(雇用)保険へとつなげていってもらおうと目論んでおるのですが、なにせやり方を説明する私自身がなーんもわからんもんでね。 まず私がわかってから、手続き方法をなんとかわかりやすく弟に伝えようと、頭をひねっております。 やっぱり電話するかぁ、明日の昼休み、銀行へ行った後、労働基準局へ。 

と、弟からメールmailto。「ケータイショップへ(障害者割引のことを聞きに)行くのはいつですか」と。 あ”ーそれも手続きせねばならないのだった。 とりあえず「また連絡します」と、なげやりに返信mail。 

あ。

今日したこと、もうひとつ。 障害が残ったときのための保険を、弟が勤めていた会社がかけてくれていたのですが、「その請求手続きのための診断書を書いてください」と病院へ頼みに行きました。 よかったです、日曜でも受付で対応していただいて。 

時間をさかのぼりまして、

昨日は、弟の退職金受け取りのための書類を整理。 書き込んで、通帳をさがして、弟の印鑑証明書を添付して。。。。。 

さらに時間をさかのぼりまして、

おとといは、仕事を半日休んでsad弟と区役所へ。 ①障害者手帳をもらう ②国民健康保険に切り替える ③国民年金に切り替えて減免申請する ④印鑑登録をし、証明書をもらう。 私の時間が限られているので、さくさくとコトを進めねばなりませんでした。 弟は、ひとつこだわるともう進めなくなるから、最初にまず、待ち合わせの場所で「これから何をするのか」と「私(姉)は急いでおること」を説明しました。 頭の中がもうクルクルと全力で回転しておりました。

労災のための書類、生命保険会社のための書類、退職金請求のための書類、などなどなどなど、ヒト(弟)の書類が山積みsweat01。 はやくこの書類の山をなくしたいよ~~~。 ややこしくて、しかも、なくしそうだーーーcrying。 

ひとつずつ、ひとつずつ、確実に、終わらしていきたい。 
そして、休日はやはり、
休みたいrock

とまあ、またまた愚痴アップでしたー。 m(_  _)m
はやく元のブログ記事にもどらなきゃなぁ。

2015年2月15日 (日)

退   院

7か月あまりの入院生活を経て、弟が退院しました。 数カ月の禁酒禁煙・規則正しい生活に偏りない食事のおかげで、体はいたって健康。 食事・風呂・トイレはもちろん洗濯も簡単な調理もできる。自転車にも乗れるし、走れもする。 「最悪の場合を考えておいてください。」と言われた7月5日のことを思うと、ベッドの上で赤ん坊のように手足をブラブラさせてた頃のことを思うと、何度も病院からの脱走をくり返したことを思うと、弟の生命力はすごいなあと思います。

 

しかし、

 

おめでとうと言わないでくださいpaper。 私ゃとても不安です、私の将来に弟がどんなふうにかかわってくるのかが。 

 

と言いますのは、まだまだその場にあった判断など不安定なところがあるからです。

 

たとえば、、、、、

 

正月ぐらい病院から出たいというから「今回は、親の顔を見るだけやで。外泊じゃなく外出やで。」と言いふくめたら、もう私のその言葉どおり、実家の玄関で「今日は顔見に来ました。じゃ。」と言うたきり踵をかえし、ちょっとは話ができるのではと期待していた両親をがっかりさせた弟です。(その後、年の初めから、私と 予定とちがうやないかという父とで言い争いの惨事?となりました。down

 

そしてたとえば、

 

病院スタッフ(主治医・看護師・療法士・相談員の方々)と弟本人、両親、私とで、現在の症状説明と退院後の打ち合わせをしたとき、「退院後しばらくは金銭的な管理はお姉さん(私)にしてもらいましょう」となったのに、録音もして本人も聞きなおしたのに、つぎ見舞に行けば「通帳とか、オレのもんを全部返して。」と言いよったり、返したケータイで「通帳を返してください。」「ハンコとかも返してください。」とショートメールを次々と送ってきたり。 何度説明してもダメで、迷惑メールが何度も何度も送られてきてるようで、もうノイローゼになりそうでした。 今、オレは何円持ってて、月々いくら入ってきてて、その中からなににいくら私達が使ったのかを報告してくれというので、秋頃からは土日をつかって報告書も作成しました。 

 

それから退院の日は、

 

荷物もあることだし車で弟のマンションまで送っていったのですが、最後の言葉は、この数カ月の私達のしんどさをねぎらうものではなく、「車でおくってくれてありがとう。」でした。 これはまー、感謝の言葉が出ただけでも良しとしますかねぇ。

 

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弟は独身貴族でありました。 私よりも勤続年数多く年収もよかったし、養う家族も家のローンもなかったわりに、貯金は少しでした。 仲間におごったり、競馬・麻雀・宝くじなどなど自由に遊び、移動は自分の車かタクシーというような生活をしていたのだと思われます。 もちろん毎日外食です。 本人はもう治った気でいますから、「また仕事復帰して給料もらったら元の生活にもどれる!」と、元の規模の生活に戻り、借金・クレジット払いなど自分の知らぬ間に(使ったことを忘れて)ふくらんだら、、、、、困りますthink。 本人が借りたものだとは言え、最近は、借用書がいつのまにかアヤシイ金融機関に渡り、どこからか私など親戚の家を捜し出し、取り立てに来ないともかぎりません。 そのとき、両親がもういない何年後かであれば、私は、ひとりで受けて立たねばならないのかと思うと(今もほぼ私ひとりで処理してますが)、ほんとに不安。 あの日の、弟の職場事故のために、私の何年後かの生活を脅かされるのだと思うと、腹も立つangry。 

 

また、脳機能障害のために車の運転は一生ダメと言われているのに「そしたら教習所へ行ってまた免許とろうかなぁ。」と言ったりもしました。 まだ返納してない免許を使ってレンタカーなど借り、他人に、自分よりおもい障害をおわせるようなことになったら・・・・・・と思うとぞっとします。 そのことを本人に伝えると、「大丈夫! オレは今まで一回も事故を起こしたことがない。」とのこと。 

 

起こしたやん、事故sign03 

 

本人はもう自分は完治したhappy01、と思っている。 しかも、ちょっとしゃべっただけでは高次脳機能障害であるということはわからないから、周りの人達から「もうどうもないやん。」と言われたら、さらに本人は「おし。もうちゃんと治ったrock」、と勘違いしてしまう。

 

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この7か月、弟の代わりになにかひとつのことをするたびに「本当に、ご本人のお姉さまですか?eye」と疑われ、役所に証明をもらいに足を運び、一から説明し、そのたびに仕事を休み私の給料が減っていく(時給なもんでsweat02)。 実際、弟がもらってる労災からの休業補償のほうが、私の月収よりもうんと多いのに、その本人のために動くたびに給料と時間が減っていく。血圧は上っていくweep。 本人からは‘返してくれメール’が次々届く。 その悔しさ・つらさ・なさけなさが、今、もう心の中で飽和状態になっています。Photo_2

 

こんなこと考えるのは私の独りよがり・わがまま・ゼイタクでしょうかねー。 ま、でも、これぐらいにしときます。 読んでいただいてありがとう。

 

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それから、
こんな弟に根気強くつきあっていただいた二つの病院の方々、祈っていただいた方々のおかげで、今の弟の健康な命があり、‘ひとりぐらし復帰’があります。 多くの人達の、心と時間に、感謝します。

 

*写真は、7か月ほったらかしにしていたのに、弟マンションのベランダでちゃんと咲いていたシクラメンです。