実   家

な で し こ

実家に帰ると新しい花が玄関前に咲いていました。なでしこのポット苗が4つ。実家に花が増えるのは久しぶりです。花壇の世話をしていたのは父でしたが、その父が亡くなってからは植えっぱなし、鉢は枯れっぱなしでした。

「生協(の共同購入)で買うてん。」
と、母。
これはうれしい。母が花を買うということは、母の心がちょっと前を向いてきたようで。

ここ数年は、耳が遠いこともあってか、私が家ん中へ入ってもじっとうつむいて椅子に腰かけ気づかぬよう(ふり?)。私の目の前でバターーっと前向きに倒れては「あんたが見てるからこけたんや。」なんて言ったことも。

あの頃からみれば雲泥の差。最近はしゃべる言葉も小さい声だけれども滑舌は良くなってます。体の動きは超スローですけども。。。。

で、なでしこの苗。
届いたポットそのまま4つ、植木鉢の中に並べ入れてあるだけ。

「ほんまはちゃんと土に植えんならんのやろうけどな、それでもええかと思て。」
まー手の力もないし足もよれよれなんで、植え替え作業が危ないということもありますし、もともと植物にはあまり興味のない人だということでもありますし。

次の週。なでしこを見てみると、枯れかかってる!ポット内の土をさわってみれば土はカラカラ。
「そのうち雨が降りそうやし、ええかと思てほっといてん。」

いかーん、いかんいかん。このまま枯れたら母の気持ちもまた枯れていってしまうかも~💦 なでしこも生きているんだ、枯れることは死ぬことだ。

と、さっそくに植え替えまして、枯れかけた部分を切除。水をた・・・・っぷりやって、肥料もまいときました。

そして、また次の週に見に行きますと、このとおり。Kimg0282
なでしこ、フッカツいたしました♪ ほ。Kimg0283

「あんた、水道(家の外にある)の蛇口、こないだきつぅ締めたやろ。あんなにきつかったら、私、あけられへんし花に水やれへんやん。」
と、母からのクレーム。声が小さいわりには、ちゃんと文句言うやん。はいはい。

先日は
「今度から体操に行くことにしてん。私な、あのーーなんやったかいな、段階のあるやつ、あれがな、いちばん軽いやつやねん。そやから週に1回だけしか行かれへんねんけどな。」
段階・・・って・・・? あ~要介護とか要支援とかいうやつか?
「ちがう! 私は介護とちゃう。 それからな、車でそこまで連れて行ってくれはんねん♪」
そこって、どこ?
「ほがらか、っちゅうとこ。」

なるほど。デイサービスとかいうやつなんかな。介護してもらわんでもええ、と思えるようになったんやな。ま、本人はずっとそのつもりできてるのかもしれへんけど。つまり、自分で、デイサービスの申し込みをしてきたということやな。調子ええやん。

もちろん、地域センターの方が母に声かけて、(介護、とかの言葉を使わずに) うまく母に話をきりだし、出かけるきっかけをふやしてくださったのでしょう。母の身体が動かなくなるのを遅らせようとしてくださったのでしょう。私が提案したら、かえって母の頭がコンランしたり意地になって拒絶したりしたでしょうに、さすがはプロです。ありがたいことです。

距離をとって、母のやり方生き方をまだみていこうと思ってます。

冬瓜のくずひき2019

冬瓜をくずひきにして実家の母へ持って行きました。190811

そしたら、

母も、私に持って帰ってもらおうと、冬瓜の煮物を多めに作っていました。
あちゃーー、冬瓜、かぶってしもた。

けども、

くずひきと煮物と、ちょっと違うから、それぞれ交換することに。

家に帰って食べくらべてみたらば、
母の煮物の方が美味しかった!見た目は写真のとおり、おいしそうでしょ?けどね、母のほうがだんぜん美味しかった!

経験値の差ですね。
母はだんだん身体がいうことをきかなくなって、きっと、ゆぅ・・・っくり動きながら作ったのだと思います。ゆぅっくり冬瓜を持ち上げて、ゆっくり包丁を出して、ゆっくり皮剝いて(これ、ようできたな)切って、ゆっくり鍋出して、ゆっくり水入れて出汁とって、ゆっくり味付けて。。。 
でも今までの経験はしっかり生きている。

母にTELで
「わたしのん、味、ヘンやった。なんでやろう。」
と聞くと、
「火を通す時間が短かったんとちゃう?」
とのこと。

ケチっちゃいけませんね、時間もガスも。(^-^;

買物は生協の個配ですませ、掃除は支援の方(風呂・トイレ・台所の床)と弟(掃除機かけ)と私(雑巾がけ)で手分けしてる母の生活。きっと炊事洗濯も、入浴も布団敷きも医者通いも、私が手を貸したら、母は日々の身体はラクなんだろうけど、あえて、様子を見ています。「また来るわな。明日デンワするわな。」と帰ってきます。なんだか後ろめたい。。⤵ 。 私、冷たいか? けども、いったんラクになったら、一気に母の身体と頭が弱っていくようで、こわくもあるのです。我が子(私)のためにおかずや食事を作ることで、母が‘役に立ってる’と思える気がするのです。ぁそれから、私のアドバイスはぜ・・・ったい受け入れないことでもあるし~。
これ、言い訳かなぁ。逃げてるのかなぁ。

せめて、

「できひんからやって」と唯一母が言う ペットボトルのフタ開けを、2~3本やって冷蔵庫に入れておくことにしています。
しかし、いいのか?これで、いいのか? まあ・・・これでいいのだ、と思っとこう。

88歳と待ち合わせ

「あんな。こないだ出かけたら、つけてたはずやのに腕時計がないねん。で、帰ってきたときに家の前の道で見つけたんやけど、車かなんかに轢かれたんやろか。壊れててなぁ。いま、腕時計がないねん。ないと困るねん。」

と、母が言う。

新しいの、買いに行ったら? 外に出る機会にもなるし。
「うん。。。。。。 前はな、お父さんといっしょのときに、質屋で買うてん。」
母は、食材や日用品の買物はするけれど、服や靴・小物の買物にはひとりで行けないみたい。買い慣れてないというか、店も分からないというか。ま、私もめったに服や靴・小物なんて買わないし、ウインドウショッピングも疲れるだけで面白いとは思わない方だから、母とあまりかわらないか。時計店なんてどこにあるのかわからない。

私、買うてこうか、腕時計?(そーだ、店はネットで調べたらいい。いっそのことネットで買うというテもあるな。)
「。。。。。んんん~~~。」
そやな。母は、ひとが買ってきたものを使わない。自分で選びたいのかなぁ。

いっしょに買いに行く? 
「うん。」即答。
それならはじめからそう言うてくれたら、いままでの問答はせずにすんだのに!
でもそれは言わずにおく。ひとこと私の気持ちを言ったがために、よけいに話をコンランさせるということが、最近わかってきたのであ~る。
ま、私も日々 学習しておるということで。。

さて、時計はどこで売ってるのか。大型スーパー? 古くからある個人経営の時計宝石店?
実家の近くで調べてみると、深草あたりか大手筋あたり。でも、母は、
「あんたの家の近くの方がええ。もしまた修理とかせんならんようになったら、私の代わりにあんたに行ってもらうこともあるやろし。」

ということで、

高野のバス停で母と待ち合わせることに。母はまだバスなどでの移動へは気持ちが向くみたい。動きはゆるりゆるり、足はそろりそろり、だけれど。

ぜ・・・・・・ったいに、バスを降りたとこで待っててな。
と何度も念をおす。

バイト終わりでいったん帰宅し、車で急行。
歩き回って母を疲れさせないよう、前もって時計売り場&時計店を下見しておきたいと思い、約1時間前に到着。母は早めにくるかもしれない。待たせたら不安になるかもしれない。と思いつき、店の場所を確認だけして、30分前にバス停に行って待つことにした。

30分前のバス。
降りてこない。次のバスかな? 狭いバス停、他の人の邪魔にならぬようちょっと離れたところで、その日もらった職場の健康診断の結果なぞ見る。 

次のバス。
降りてこない。あれ?この次のバスかなぁ。
と、目を足元にやるとっ、( ゚Д゚)
車道と歩道の間の縁石に腰かけてる老人がっ。アブナイ人だ!ぎりぎりに寄って走るバイクに接触しそうだ! 
え?もしかして、、、、?とよく見ると、、、、、私の母!なんてこったい!
けども、びっくりさせてはいけない。ころんと車道に転がっては一大事だぁ。

ずっとしたを見てる(もう背中がだいぶん曲がってるので下しか向けない)母の顔の前で手をふり
もう来てたん?早いなー。私もだいぶん前から来てたのにわからんかったわ。いつからここにいたん?
と声かけた。母は難聴だからでかい声で。ついでに、縁石に腰かけたら危険なこともつけたし。けど、座るところは他にないバス停。乗り降りの多いバス停。バスを待つ周りの人達の「なんで老人をこんなとこで座らして待たせるねん!」という心の声や視線が、突き刺さってくるように感じた。こんなことないように、早めに行ったのにな。健康診断結果など見ず、ずっと目を皿にしとけばよかった。

聞けば、母は「早く(たぶん私が店を確認してる間)に着いて、トイレに行っといた」のだとか。お互いに、早くに来たのにすれちがい。

母といっしょに、歩行者時間をめいっぱいつかって、ゆっくりと信号交差点を横断。まだきりぎり間にあう歩行速度。
「背中が曲がってしもて下しか見えへんけど、おかげで、つまづかへんようになったわ。」
と母。母は、こんなプラス思考だったっけと、ちょっと見直す。文句の多い人だから。

近い方の、個人時計店へ。実際に母に時計をつけてもらい、つけやすさやつけ心地や見やすさなどを確かめてもらう。母が住所等記入し、母が支払った。ゆ・・・・くりだけど、まだ、自分でしたいという意志があるのが有難い。待ってるのは辛気臭いし母も自分でやるのはしんどいだろうけども、母ができることを私がしてしまったら、母の自信や意欲がなくなっていくようでこわいから、私は、ギリギリまで、じっとガマンの手を出さずの娘でいよう。

ということで、母との待ち合わせ・時計買いは、いろんな意味で無事終了。
帰りは、実家まで母を車で送りました。時計の保証書は、私の手元にあります。

 

 

父のPC

父のパソコンをやっと開けようと思った。

昨年3月に亡くなった父のパソコン。母にとっては全くわからない不可解なモノだからか、父が毎日のぞきこみ自分(母)とよりも長く時間を過ごしていたからか、
「そんなもん要らん!どっかへやって!」
と、当時の母は言った。

持って帰ってきた父のパソコン2台。春が過ぎ、夏、秋、冬がきて一周忌法要がすみ、また夏・秋もすんで2度目の今冬。 1年10カ月、ずっとうちのタンス横に置いていた。仕事と母と日々の家仕事とで、24f時間のくり返しが流れてしまった。疲れていたのもある。のぞくのが悲しかったのもある。どうしても、さわれなかった。

あの朝も、父は、朝食ができるまでにと、パソコンを開けたところで倒れたのだった。あの時、父はパソコンでなにをしようとしていたのかなぁ。デスクトップに保存した囲碁のゲーム?、住所録の整理?、趣味で集めていた京都の民話の清書か?それとも、なにか家族に残したい手紙か?

もしかしたら、遺書も入っているのかもしれない。書きかけだったのかもしれない。思わぬところに「現金○万円かくしておく」なんていうのかもしれない。

開けなきゃ。確認して、大事なものは残さなきゃ。パソコンも、もう処分しなきゃ。

そう思いつつ数か月。
やっと、
開けようと思った。

あそるおそる電源を入れるとパスワードもかけてなく、デスクトップやデータフォルダの中をひとつひとつチェックしたけれど、、、
大事そうなものや個人情報は残っていなかった。 

父が仕事でよく使っていたのはワープロの時代だったから、フロッピーディスクかプリントアウトした紙(冊子)で保存することにしていたらしい。パソコンの中に保存する発想がなく、その方法も、説明を受けたのかもしれないけど、もう理解し活用できなかったのかも。

残っていたのは、書きかけの民話の原稿と、デスクトップに囲碁ゲームのショートカット。書きかけの原稿はいくつかあったけど、削除方法ももしかしたらわからなかったのかもしれない。

遺書や手紙はなかった。ほぼ空っぽだった。

父は自分の死を、受け入れることができたのだろうか、日々怖かっただろうと、改めて思う。父に寄り添えなかった自分を悲しく思う。

そんなことを思いながら、書きかけ原稿もゲームもすべて消去し、ゴミ箱の中も消去するところまでして、家電店で引き取ってもらった。

またひとつ E N D。

一 周 忌

亡き父の一周忌法事が終わりました。

会場やお寺との連絡・取り決め、親戚への案内、お礼等々。来てくださる方、来てはいただけないけど御香料やお供えを送ってくださる方・手紙を送ってくださる方。親戚でなく案内状も送ってないのに、もう1年経つとお供えの花など送ってくださった方。それぞれに対応が違いました。

当日の食事の数・当日持って帰っていただく粗供養の数・送る粗供養の数をまとめて、数日前に会場へ報告。これは昼休みに。

送るほうの粗供養に入れる御礼状の準備。御車代の準備(久しぶりの筆ペンがうまく使えない)。 お寺さんへのお布施・御膳料・御車代の準備。遠くから来ていただく方は着替えスペースがいるかもしれないから会場にスペース確保のお願いを。 当日持って行く位牌・写真・お盆や家に届いたお供えを忘れちゃいけない。お供えは来た方に分けて持って帰ってもらうと聞いたから、包む半紙やら袋やらも要るかな。来てくださる方のTEL番号はすぐ出せるところに。ご香料は現金だから、何かまとめて入れる袋が要るかな。おっと、数珠も持って行かなくちゃ。

当日。 誰よりも早く会場入りして最終打ち合わせなどしておきたい。 弟はきっと早くに行くだろう。 うろうろしたり、私とは別に事務室で打ち合わせを始めたりしてはまたややこしくなる。 だから誰よりも早くに到着したい。 と、朝6時に起きたのに、心配で再度確認してるうちに、持ち物が入るカバン(袋)が無いと焦り、喪服の襟がほつれているのを発見し、ブーツで出かけようとしてパンプスも要ることに気づき、とアタフタ。 出遅れてしまいました。なんと、土曜日だからか車の量も多く、なかなか進みません。 

着いたら弟をはじめ何人かすでに到着済。 

着替えのスペースはここですよ。写真と位牌を出してもらえますか? お供えするお菓子などあれば、あの台に。お寺へのお礼は法要が終わってからですが、まずご挨拶を。粗供養を送る方々の住所を教えてください。持って帰る粗供養はいくつ要りますか? 来られた方にはお茶を、お母さんにお出ししてもらっています。貴重品以外はこのワゴンに、コートはここのハンガーヘ。これらは法要の間に食事の部屋へ運んでおきますね。来られてないのは、あと何人でしょう。 食事されずに帰られるのはどなたですか?

という会場担当の方に言われるまま即答していき、あ・・・・・っという間に法要が始まりました。 自分の焼香順がちかづいてきて初めて、数珠を出していないことに気づき、またまた慌てて、しかし音をたてないようバッグから数珠を取り出すなんてこともありました。

法要後、お寺さんへのお礼をしに控室へ。

すぐ食事会場へ引き返します。飲み物(瓶)は開けた分だけ精算し、あとですべて合算で現金支払いです。お姉さん(私です)は、はじめの挨拶、弟さんは「献杯」と言うてくださいと言われ、即興で挨拶を簡単に。弟は「献杯」とだけ言うてくださいと何度か促された後、挨拶を始めました。ま、いいかぁ。 皆さんが食事してる間にお供えを私が分ける気でいたのですが、それは担当の方がしてくださることになっていたのでした。半紙や袋は持ってこなくてもよかったんやね。

お一人ずつにお礼の挨拶をしにいきました。言うときます。私は宴会でもこういうことはやりません。やりませんが、母も弟も動かないのでしょうがない。でもまあ、母・弟が通夜や葬式の時ほどはちゃめちゃでなく落ち着いているから、今回はこのまま無事終わるかな。あとは、車で来られた方へ駐車券の説明をして、いや預かって私が無料処理してもらいに事務室へ行って、粗供養をひとつずつ渡して、終わりの挨拶をして、皆さんを見送ったあと精算して、荷物と母を実家へ送れば終わりやな。

と算段しながらデザートを食べていると、向かいに座っていた弟が
「クレジットカードをまだ返してもらってない気がする。」
と言い出した。あーなんで今そんなことを言う気になる? 私しかする者がいないなら、手間暇は惜しまない。仕事の合間にやる。父はもうこの世にいられなかったけど、私はしんどくても今生きていられる。 だから頑張る。 だけどやっぱり、自分勝手なのかもしれませんが、こういうややこしさの起こることが一番こたえます。
カチンときて「
入院中に預かっていたものはもう全部返しました!」と何度か押し問答してるうち、終わりの(?)挨拶を促され、席を立つという場面もありました。 

はい。

終わりました。十分なことはできなかったけれど、通夜・葬式のときのような失礼を参会者にしてしまうことはなかった、、、のではないかと。まあこれが、私の精一杯でした。180218_


やっと、

父の葬儀が終わった気がします。

今日は、自分勝手な自分にあえて「お疲れ!」と言い、録画したオリンピックなぞ観ています。

さ。明日からは確定申告と朗読稽古だー。おっと、次の仕事さがしもあるぞー。今の仕事もあるぞー。 おーーーーっ!

初  盆

母は、’父の死以前にしていたこと’を踏襲しています。 父と一緒に行ってた月一回のコンサートに行き、父と事務していた退職互助会や手品の会に顔を出し、ハンドベルの練習や診療所など病院・講話の会・マッサージに定期的に行く等々。 マッサージ以外は父と一緒に行っていたところ。 まるで父が、自分の死後も母が行ける所をつくっておいたかのよう。 母は、いつも文句言いながらついて行ってたんですけどね。

変わったことは、たぶん月に一度の父の墓参と地域包括センター(?)から週に一回家事支援の人が来ること。 生協のこっこ便も週に一度やって来るので、それはそれなりに行く所や会う人達があり、ちょっと安心です。 私も、仕事後の電話で、しんどくなかったら一日に1ケ所、どこかに行けたらええなぁ、と日々言うてます。「そうやなぁ。」と返す余裕が、母にも出てきました。

けれども、

去年まで父と言ってた本家の墓参。 今年は私と2人で行きました。 JR京都駅のホームで待ち合わせ。西舞鶴に到着後、タクシーでお墓へ。母は難聴なのに、蚊の鳴くような声で、しかも口を動かさずに話します。 タクシーに乗り込んだら、運転手さんも補聴器をつけておられました。 そして、トラブル。

母: 花を買って行きたいんですけど。。。

運転手:花屋さんに行かれるのですね。

私: ぁ。墓参りに行くための花を、まず、買いに行くんです。

運転手:お寺の近くの花屋さんですね。どこですか?

母: お寺じゃないんです。 あの、花屋に。。。

私: お墓はお寺の中にあるのじゃなくて、山の麓にあるんですけど、駅前でしか花を買えないと思うんで、、まずここらへんの花屋で花を買いたいんです。

ということで花を買いまして、次はお墓です。 私はお墓がどこにあるのか、細かい道(そのあたりの地理)を知りません。 

運転手:お墓はどこですか?

母: え~っと。

私: 万願寺さんの方向とちがったっけ。

母: ちがう! 万願寺までは行かへん! 

私: けど方向としたら、万願寺さん方面やろ? 万願寺へ向かって運転してもろたら、わかる?

母: わからん!

運転手:そっち方面へ行ってみたら、わかりますか?

母: 行ってみたら、わかる。 あーあ、年寄りが、話す気なくなるのがわかるわ。そんなに次から次と話されたら、せわしぃてかなんわ!

、、、ということで、なんとかお墓のある、私にも見覚えのある田んぼのそばに到着。 あぜ道を少し登った小山のきわに、ご先祖様のお墓が並んでいるんです。 2年前、父と3人で来た時、父はこのあぜ道をハァハァ息切らしながら杖ついて歩いてたっけ。。。雨が降ってきてました。 ドアが開いてから、レインコートに着替え始めた母。 それを、気長に、嫌な顔ひとつせず待つ運転手さん。

行ってみると、なんと、お墓前の田んぼごと、猪避けの電気柵で囲まれていたんです。 危険なんて表示も。 感電したらタイヘン! どーしよー~~~と、ふり向くと、母がいない!  どこへ行った? だれかの助けを求めに行ったことはわかるが、このぬかるんだ狭いあぜ道ですべってこけたら? いったいどこ行った? 

タクシーまで戻ったかも。と、タクシーまで下るも、こっちにはだれも来られませんでしたよ、と運転手さん。 えーーーーっ、どこ行った? 

タクシーと私以外、だれも居ない。 し~~~~ん。 ただ、雨が降る。 

どーしよー。と、電気柵まで戻ろうとしたとき、上の方から女性の方と元気にしゃべってさっさと歩いてる母の声。 出るんやん、声! 歩けるんやん、さっさと!

地元女性の方に、電気柵の外し方と戻し方を教えていただき、雨の中、線香の束に火をつけ、ロウソクにも火をつけ灯籠に立て、花を供え、数珠とりだして手を合わせました。 用水路で私がバケツに汲んでおいた水は、「雨降ってるし、水はあげんでもええやろ。」とジャッと捨てる母。 ま~そうなんかもしれんけど。。。

というわけで、待機していたタクシーでまた駅前にもどり、昼御飯を食べ、京都に170816_2013帰ってきた墓参でした。 

.

.

先日の送り火。16日。 うちからちょこっとだけ見える舟形の帆を見ながら、父たちを送りました。今まで、五山の送り火というと夏の終わりの心の区切りでしかなく、夏の夜空に見える花火を見るような感覚でした。

今回、父は、初めてあの世から戻ってきて、街をあげての山々の火で送られるんやなぁと、思ったことでした。

ごちゃまぜごころ

思えば3月は朗読レッスンも行けずじまい。しかたないね、こんな時だもの。

 

と、自分に言い聞かせていた(いえ、家でも練習する心のゆとりがなかった)ところ、先日、母が言った。
 「ハンドベルのレッスンには行ってきた。1回でもレッスンが抜けると忘れてしまうからな。」

 

(・_)エッ....?  ・  ・  ・  。  はあ~~~~?  
 
しかもそれは通夜のたった1週間後だったらしい。

 

また別の日には
 「四十九日が済んだら早く納骨を済ませたい!」
 じゃ、次の日にでも
 「次の日はあかん。京フィルの演奏会に行く。」 

 

はあ~~~~? (゚Д゚)ハァ?  ハァ?
どーゆーこっちゃ。 母はこんな時に趣味が第一かぃ?
まぁ。。。ハンドベルも京フィル鑑賞も、いつも父と2人で楽しんでたことなので、それも関係あるのでしょうか?
しかし私は、父の死に関わる一連のことや、それにまつわる母・弟の言動や、自分の食い扶持(父が私に残したものdollarについての話は全く出ない)のことでアタマがいっぱいのこの数週週間だったことを思うと、なんだか胸にストンと落ちてこない。アタマで理解できない。これは私自身の性格のモンダイか?

 

こころがごちゃまぜ状態。とにかくココロを少しでもスッキリさせたい。

 

と、
あろうことか、私は平安神宮へお参りに行った。帰宅後PCで調べてみたら、喪中50日は神社へ入ってはいけないとか。知らなんだ~。 50日過ぎたらまた謝り参り(?)に行こう。
と、

見つけた聖書。 音読してみた。 これは、いいのだったか?  
そしてここ数日、起床後の自己流瞑想タイムも。 

あ~とにかくココロを少しでもスッキリさせたい。170320__2

そこで見つけた袋麺。ひと月ほど前、職場でタイ土産にもらった袋麺。「と・・・・・っても辛いですから、家で食べたほうがいいですよ。」と言われ、持ち帰った袋麺。 そうだ、おいしいものを食べてみよう。
 
辛すぎて食べられなかったらもったいない。 念のため、ラ王とコラボさせた(混ぜた)。  添付のタイ調味料は4分の1だけにした。 

 

ラーメンもごちゃまぜ。

 

めっちゃ辛かったbearing
けど、心が数分タイへ飛んだ。
これはどんな店で売られていたんやろう? タイの人達は、これをどんな顔して食べたはるんやろう? 

 

そうや。
タイは微笑みの国や。

いま私はこれでええわ。

 

けれどココロは未だごちゃまぜ。。。
どーしたらええん? やっぱり時間薬っちゅうやつですかね。

ワシがワタシがもう知らん。

弟は高次脳機能障害です。同時に数種類のことを並行して考えたり実行したりできません。聞き言葉と読み言葉の理解が、複雑で長い文章になると困難です。原因は仕事中の事故。退院し、おかげさまで今では普通に一人暮らしし日常会話しアルバイトも見つかったようです。でも、能力的にはもうあまり回復しないことが、父の葬儀でわかりました。 しかも、弟は自分の欠けた能力について無自覚。これが、高次脳機能障害のやっかなところなのだそうです。

母は85歳と半年。弟が退院したころ、右腕を骨折し手術入院。固定するための金属はまだ腕の中に残っていますが、取り出し手術が老人の身体に負担がかかるということで取り出していません。認知症ではありませんが、まぁ老人ということでたまに言うことがヘンだったりします。 難聴です。 ひとに頼るのが嫌いで頑固さが最近増してきてます。

この2人といっしょに、今回の通夜・葬儀・料金等々の打ち合わせや説明が、父がセレマの霊安室へ運ばれた直後(深夜)・次の日(通夜の前日)・当日2日の時々・葬儀の次の日、と続きました。 私達3人は、父を霊安室へ送り届けた時点でもう体と心が疲れていました。私も頭が朦朧としていました。

私達3人が並ぶと、セレマの職員さん達からしたら、熟年の男性つまり弟が、打ち合わせのメイン(窓口)であると思われます。 

弟も今回、自分は長男であるので、中心になって動きたい・しきりたい。 
母は、夫が亡くなったら連絡は自分でしたいし、夫がしたかった形式で通夜・葬式をしたい、とだけ思っている。
けれど、トントンと進めていこうとしているセレマの方は、たくさんのことを説明し、決めていかねばならない。

最初は私も「ゆっくりとはっきりとしゃべってやってください。」と母の難聴を理由にお願いしていたのですけど、それでは葬式・初七日までとてもじゃないけど終わらないことに気づいてきました。 弟は、わからない。母は、聞こえない。両人とも、興味のあるとこだけしか覚えていけない。

たとえば、、、、

【エピソード①】  通夜の前日。 病院への支払い等で、弟がさんざん「ワシがする」と主張したので、言い合いの末、私は引き下がることに決めたその後で。  *セ=セレマの担当者

セ:今回、親戚などへ連絡されたのはどなたですか?

母:私です。

セ:通夜・葬儀・斎場へはそれぞれ何人ぐらい参加されるのでしょう? 料理や供養や斎場への車の手配もありますので。

母:そんな失礼なこと、いつまで参加してもらえますかなんて、とてもじゃないけど聞けへん!私もいままでそんなこと尋ねられたことないわっ!

セ:だいたいで・・・・・。

母:だいたい、も、わからん。

セ:昨夜、連絡するときに尋ねてくださいと、お話してたかと思いますが。。。

母:もー知らん!そんなん言うんやったら勝手にやって。(と、部屋を出る)

セ:それなら、どちらかが電話で聞いていただけますか?

私:弟がするそーです。(私もまだ腹を立てている)

弟:じゃぁ、ワタシが。(満足気)

私:ほんまにできるん? ちょっと練習してみよか? 言うことわかる?(と、セリフをメモして弟に渡す)

弟: (うまく言えない)

母:そんなこと、さしてやらんときっ!

やっぱりあかん。 と、ここで私がセレマ担当者の方へ、弟の高次脳機能障害を伝えました。 担当者の方はちょっと戸惑われたようでしたが、なんせ決定することは山ほどある。決めて所業者へ発注もかけなければならないのでしょう。 窓口は長女(私)と、されたようでした。でも、ふたりのいるところで話を進めないでいるとまた「聞いてない。勝手に決めた」となってやっかい。 二人に居てもらい、時々、繰返し説明と確認をとりながら、セレマ担当者と目くばせしながら、母の話を聞きだしながら、どうにかこうにか、予想で人数を多めに決めました。

【エピソード②】 通夜式の後の食事会で。

この時も、まだ決定しきれてないことや確認したいことがあって、私はセレマ担当者とたびたび話をしていました。また、来ていただいた方々の話(父との関係や思い出話)を聞くのも私でした。 

こんな、父が亡くなったときにも、おなかはすくんですねぇ。ペコペコでした。あー早く座って一口でも二口でも食べたい飲みたい。と思いながら、明日の、親族代表のお礼の言葉も私が言うことにして、相談していると、それまで親戚の方々と話しながら寿司を食べていた弟が私達を見て、こっちにきました。

弟:あの~。聞きたいことがあるんですけど、、、。

セ:(私との間に入ってくださって)なんでしょう。なんでもどうぞ。

弟:柩の中にあの桜(壇にかざってあった)は入れてもらえないんですか?

セ:枝がいっぱいありますからねぇ。身体が傷ついたりするからあまり枝ものは入れないんですけど。 花屋といっぺん相談してみますね。

と、弟は納得してまたテーブル席へ食べに。 そうこうしてるうちに食事会も終わってしまい、私が、残ってる寿司をこっそり食べようとしていると、弟も真似して立ったまま食べ始めました。 みんなが帰ろうとしているときに、故人のこどもふたりがテーブルの残り物を立って食べてる図。 悲しくなって、小皿に急いで盛り、親戚の方々を見送りにいったのでした。姉は食べられなかったんだから見送りは自分が、という判断、してほしかったなぁ。

私が担当者と打ち合わせしていると自分もなにか話そうとしに来る。私が食べようとすると、満腹にもかかわらず自分も負けじとまた食べようとする。 おんなじことを「ワタシもできる」という自己表示なんでしょうか? 私が出ると弟が別のことで出てくるから担当者の仕事が増える。私が引くと、弟も引いているから当然なにも進まない。

次の日、葬式の後、母がセレマへの文句を、私に言いにきました。
「なんで、桜なんか柩に入れるんやろう、セレマは。 あんなもん入れるの、見たことない」と。

担当者の方は、弟の意をくんで、花屋に桜花の部分だけを細かく切ってもらえるよう頼んでくださったのでした。

.

他、病院でもお寺さんの前でも、区役所等の後始末(手続き)のことでも、いろいろいろいろ。。。。。。 いろいろいろいろ。 私にすべて任せてもらえた方が、少なくとも頭はこんなにコンランせずに済んだものを。二人とも、自分がやりたいもんで。 自分でできるように繰り返し時間をかけて私から説明し、メモを作り更新し、じっと見て待つ、時には怒りながら。ううううぅ。

悲しみや喪失感よりもアタマが疲れてなにがなにやら状態。
息子がすぐに駆けつけてくれたのがなにより有難かった。
頑固な老母とややこしい弟が残って、私の立場を理解してくれてた父がいなくなって、
 これからどうしたらええんやろう?

父の死と父の人生に、ひたすら思いを馳せたいです。

こんなときに不謹慎だとは承知の上で、「なに甘いこと言うてるんや、ひとりだけ苦労したみたいに」と思われることを承知の上で、書かずにはいられませんでした。アマイなぁ。

よう見ときや。

草木や花の名前を私にたくさん教えてくれたのは、父でした。 

 

昨夏、息子のスマホを通して家の中にポケモンが居るのをのぞき、
「こ~んなもんが見られる時代にまで生きてられてよかった!」
と笑顔の父でした。
けれど、2回目の東京オリンピックも一緒に見てやぁという私の言葉には返事を濁していました。

 

もういつ命が終わってもおかしくない、と病院で宣告されてから3年ちかく生きていてくれました。最近は肺癌(余命約半年)も発覚。 さぞや恐ろしかったことかと。。。

 

あの朝、母からTEL。「おじいちゃんが救急車で搬送された。もうあと時間のモンダイらしい。」
看護師さんがTELを変わったようで「時間ではなく、分を争います。すぐ来てください!」

 

思いつくものを持って、車で病院へ。 

 

病院の中の一番良い個室で、朝着ていた服のまま、父はうなっていました。父のそばに寄ろうとすると弟が
「医者の話を聞きますか?ワタシはさっき聞きました!」

え?そんなのもうだいたいわかってる。直径10センチにも膨らんだ腹部大動脈が破裂したのだ。もう助からないのだ。最期の数分かもしれないのだ。もう生きた父には会えないかもしれないと思いながら車を運転してきたのだ。医者の話を今更聞く場合やないやろ。と、思ったが、父を見ると苦しんではいるが‘あと数分’ではないようだったので、とりあえず当直の医師のところへ。

 

話を聞くというよりも、医師に「生きる時間が短くなってもいいから、とにかく今の苦痛をやわらげてやってほしい。それは本人からも以前から何度も伝えられているから。」とお願いしました。

病室へもどると、父は「痛い痛い。だるい。しんどい。」と何度も訴えて(つぶやいて)いました。母・弟と3人で背中や腰をさすりました。痛み止めの薬を入れてもらったのですが、「なかなか効いてきぃひん。痛い痛い。」と父。

この時はまだ会話ができましたので、私は「ここ上等の部屋やでぇ。」とか「さっきな、室温が28℃やったわー。」とか「御池中学の横の桜はもう咲いてるらしい。」とか、父の気のまぎれるようなことを脈絡なく話し続けました。父は痛いだるいしんどいの合間に「へ~。」とか「ほんまか。」とかの相槌をうってくれました。 あんなにしんどい最中に「ああ、そうやって扇いくれたら気持ちいいわ。ありがとう。」と言うてくれました。 

母は難聴なので(補聴器は持ってきてなかった)父がなにか言うたび「今なんて言うてるん?」と聞きます。 私が大きな声で父の言った言葉を繰り返しました。

数時間後また痛み止めを。すると父は少しラクになったようで午後すこし眠り(?)ました。
弟が「ワタシは少し帰って休んできます。帰るなら今のうちやろ。母(呼びかける二人称でも弟はこう言う)も、いっぺん帰ってきたら?」と言い出したので、
えええぇぇー、分を争っていたのではなかったのかーと私は思ったのだけれど、母も「ほんなら補聴器と電話番号書いてある紙とケータイの充電器をとりに帰りたい。」と言い、交替で帰ることに。(これでよいのか?父は良くなったのではないんやで。)

夕方。痛み止め効果がきれてきたようで、また苦しみだしました。実家から父のパジャマも持ってきていたから、少しでも体がラクかと着替えさせました。「息が苦しい。ベッド(上半身)を上に傾けて。下に傾けて。あつい。」と訴え続け、体は冷たいのに汗をかき、だんだん肌が黄色くなっていきました。私はベッドを上に下にとリモコンを操作し続け、母は父の額に置いた濡れタオルを交換し続けました。

そのあたりで、夜の当直の医師が来られ、もう少し強い痛み止めをとお願いしてる間に、父が静かになり、見ると目の焦点が合わなくなっていました。痛み止めや酸素吸入が先だったのかもしれません。じっと私の顔を見ているようでしたが、たぶん見えてなかったんやろなぁ。

看護師の方が「最後までいきているのは聴覚ですから、話しかけてあげてください」と教えていただいたのですけど、なにを話していいのか。 母といっしょに、父がよくハーモニカで演奏していた曲を歌い続けました。「ふるさと」を歌ったときは、右手で弟の手をぎゅっとにぎり、なんと私がさすっていた右足が拍子をとるようにヒョンヒョンと動きました。何曲か歌ったころ、息をしなくなり、しばらくして、心臓も止まりました。

ああきょうは長い一日やったね痛かったねと、母が父に言いました。

夜の9時半でした。

人間が死ぬところをよう見ときや、ちゃんと見たか、と父が言った気がしました。父が、私に最期に教えてくれたのは、これなんやな。
うん。ちゃんと、見たで。

と、気持ちをかみしめる間もなく、死亡診断書は何通いりますか?どこの葬儀屋さんに来てもらうか決めておられますか?という話に。
「もいっぺん帰らなあかん。電話番号がわからへん」と母。
夕方とりに帰ったやん。
「あれはな、明日おじいちゃんと行くはずやった音楽会に行けへんからその連絡をせなあかんと思うて。」
したん、連絡?
「したよ。」

・・・・・。いつのまに。。。。
「じゃあワタシもいっしょに実家へ行きます
と弟が言い出したから、父を置いて三人でこの場を離れたらあかんことを説得し、葬儀屋へ連絡するべくまた実家へと車を走らせたのでした。

避難指示 w(゚o゚)w

よう降りますねぇ、雨。 ほんまにもー洗濯もんは乾かへんし、床や畳は湿ってきしむし(タイヘン!シンコク!)、不快指数はハンパないし、通勤途中の服はぬれるし、なにより昼もずっと暗い! ここ数年は、降りこめられて家の中で雨の音きくのもいいな~と思い始めてたんやけど、、、、、返上! やっぱりこう降り続くとたまりません。 そやからこそ、まあ、たまの青空がとってもうれしく感じることもできるんやけど、、けどもーこのへんで止んでくれへんかなぁ。 

先日、帰宅後ヘロヘロで、TVもPCも目ぇと頭が受け付けず、もう寝るべしと布団敷いたとき、ふと気になった。 雨はいつまで降るんやろう。 おりしも外は相変わらずの雨。 詰まったトユから雨があふれ出し、庭に直接ボトボト落ちる音がすさまじい。

PCを開けると、Yahooのホームページに、どーーんと雨の危険情報。 なんと京都市にも! 京都市の、どこやろう。 

なんとなんと、実家のある地区に避難指示が19時ぐらいに出てた。 その時すでに22時。 父母は、どうしたやろう。 避難したんやろうか? それとも、もう寝てるんやろうか?

気になったからTEL。長い呼び出し音の後、母が出た。 

起きてた?起こした? それとも今から避難するとこやった? 避難指示が出てるで!

「知ってる。避難指示が出てからも~だいぶん経ってるけどな。」

避難しぃひんの?

「そんなもん、しいひん。」

どもないん

「この雨の中、どうやってどこまでお父さん連れて歩いていくん? そのほうが危ないわ。」

近所の人はどう? 動いたはる?

「だーれも、たぶん。 それより、そっちのほうが心配や。比叡山もあるしまわり田んぼやし家は坂の途中に建ってるやろ?」 

そ、そうやな。。。 もーええかぁ? こっちは避難指示出てへんから大丈夫や。比叡山も大丈夫。 と、母の心配事がかえって増えるから早々に電話をきった。

考えてみれば、

避難指示や避難勧告が出たって、高齢&重病人は、動けない。 晴れた日でも、電柱と電柱の間を歩くのに息がきれ、動脈瘤のため家の中でもそぉっと動いている(自宅療養してる)父であるのに、難聴&骨折した腕に金属の棒(?)を残したままでこれまたそろりと生活してる母であるのに、豪雨の中、傘さして遠い避難所まで歩くのは無理やん。 

日を別にして避難勧告が出た久多などは、動けないご老人宅を車で拾ってまわったという話を聞いたんやけど、人口の多いとこやったらそんなんもムリやわなぁ。 ほんまに危険になったとき、いったいどうしたらいいんやろう。 危険を知らせた後のことは、被害が出るまでは、本人責任となるんやろうか?

私も今までは、父母の病気や寿命そのものばかりを心配していたけれど、天災などの場合、どうしたらいいんやろう。 私は、どうしたらいいんやろう。 と、あらためて考えてしまいました。

ほんま、雨、多いなぁ。 もうこれぐらいで勘弁しといてほしいわ。

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