2024年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

  • 2011627
無料ブログはココログ

実   家

2023年1月12日 (木)

亡母の書類を処分する。

4施設、6病院、5業者、1センター、2社、2役所。

母が壊れていった過程で関わった所との、契約書、重要事項説明書、合意書、依頼書、念書、計画書、認定証、請求・領収証等々の大部分を処分しました。整理はしてあったのですが、見ると辛いしもう必要ないのかなと。

辛いというのは、亡母には申し訳ないけれど、まだ今は悲しみ寂しさよりも、後悔。
〇〇できたのではないか?
〇〇しなければ、母は最期の時間をあんなに辛い思いをしなくてすんだのではないか? 
等々。

これはもう私は生きてる間ずっとかかえていくんだろ。

しょうがない。
私が選んだやり方だったのだから。

それにしても、

私、何度サインしたのでしょ。
何度、ハンコを押したのでしょ。

個人情報を黒で塗りつぶし、手でちぎり、さらに別々の紙袋に分け入れ、そしていつものゴミといっしょに、
市の20ℓ袋に押し込みました。

明日、ゴミの日です。

2022年8月17日 (水)

供  花

墓参りに行ったら、密でした!

いっくり!!

ここ数年、墓参は月一度。閑散としていて、心も静かに落ち着きます。

お盆はいつも夜。親の提灯に灯がともり、他の方々のといっしょに夏暮れの風に揺れてゐるのを見に。
夜は混んでました。大文字の送り火は、渋滞避けての帰宅後、TVニュースで観賞。

けれど、あの場所が、昼にも、賑わっていたとは!

墓所のみなみなさま、たくさんの賑わいでさぞ懐かしくうきうきされてたことでしょう。

今年は、母の新盆。Kimg1968

提灯の灯は見に行かないけれど、
今年は父と母とふたりだからね。

いつもは庭の花を持って行って供えるのだけれど、
今回はフンパツ! 買って、花を供えました。

しばらくたって枯れ萎れた花は、お寺で片付け(?)てくださりもするのだけれど、
「心のなかに居る人に手を合わせるのだから、花は自分に向けましょう」とも言われていたことを思い出し、
持ち帰りました。

家に活けた供花のそばを通るたび、
両親がそばに居て、花を見て微笑んでいるような気がして、心が落ちつきます。

ふと思ったこと。
大切な人は、生きて、存在してくれているだけで、それでよかったのだ、ということ。
(まぁ、実際の介護生活ではそうも言ってられないことも承知!)

夜の墓参はしなかったけれど、
やはり送り火はTVでみました。

また来年な。

2022年8月 7日 (日)

ひとりあやとり

ふと目にしたモノで、亡き母を思い出せるようになりました。

小学生の頃よく母に折り紙とかを教えてもらったなぁ
とか。

押入を整理してたら毛糸玉が出てきました。

高校生だったか大学生だったかのとき、いっぺんセーターを編んでみようと母に教わったことを思い出しました。できるだけ直線で編みたいと注文つけて。その時余った毛糸です。結局、自作セーターはそのとき限り。今もう一度編み物しようとしても、編み目が見えない目になってしまいましたが。

残ってる毛糸でひとりあやとりをしてみました。

手が覚えてると思ってやり始めたら、、、あきません。
忘れてるところ多々あり、できません。

基本の形、はできます。
あと、川→田んぼ→ダイヤモンド→つづみ→船→つり橋→基本の形・・・とエンドレスに続くはずが、
まーどーしたことでしょう?
ひとつの毛糸の輪があれば、何十分でもひとりで遊んでいられたのに。
2人でやるのも忘れているかも。

パンと小さく両手をたたけばホウキの形、っていうのもあったよなぁ。

で、202208

YouTube見ながら、やってみましたよん。

あーーこーやった、そーやった。
と、小さく喜びながら。

忘れんうちに数日やってみよう。老化防止の脳トレにもなるし。。。(^-^;

母は、機械編でよくセーターや腹巻や毛糸のパンツを作ってくれました。
ジャーッ、ジャーッ、て家の中に編み機の音が響いてました。
足踏みミシンもあったなぁ。新聞紙で覆って、私の隠れ家になってたミシンだったなぁ。

店でゼリーなど見つけて、母に買って行ってあげようと頭にうかびすぐに、
ぁ、そーだったそーだった、もうこの世にはいないのだった
と思いなおすことがたびたびあります。

よく考えれば、去年の今頃はまだ
「もーこんなんなってまで生きていとぅない!」
と生きて叫んでいたのだったっけ。

壊れていく母に、もうちょっと生きてもらいたかったのか、
苦しみ終わってあの世に行けたのを良しとするか、

まだ、私には、わかりません。

 

 

2022年3月14日 (月)

亡母の婚前戸籍

亡母の戸籍、それも生まれてから結婚するまでをも含む戸籍が必要になりました。

東大阪市から届いたその戸籍用紙はなんと10枚!
亡母の親(私の祖父母)・兄弟姉妹(私の叔父叔母)だけじゃなく、祖父母(私の曾祖父母)・母のいとこ(私の、なに?)。
生年月日や出生地・届出人・死亡日。

ほとんどの人達の名に×がつけてあったので、亡母はその最後の方に亡くなったということになります。まぁ、90歳でしたもん。亡母の死を連絡した亡母の弟も、数か月前に亡くなっていました。

亡母は、まだ元気だった頃から、自分の妹弟が4人、生後すぐに亡くなったと言っていました。
戦死じゃなくて病死だそうですが、戦中か戦後で食べ物や病院(またはそれにかけるお金)がなかったんでしょう。
そのうち戸籍に載っていたのは2人。あとの2人は、この世に生まれることはできたけれども、役所に届ける前に亡くなったということですね。
その他に1人、他の姓から戸籍に入った人がおられました。私のじいちゃんばあちゃんは、その人を養子にしはったんやね。

その人達を生んだ私のばあちゃん(亡母の母)は、万博の年、今の私と同じ歳で亡くなりました。これは、私の記憶にあります。

戦中戦後のわけわからん時代・必死で生きていた母達が、現実のものとして思いうかんできました。

それにしても、

ヒトひとりの命が亡くなったら、生き残った者が、こんな昔の戸籍までたどることになるんやねぇ。
(戸籍のある日本ならではですね。)

ま、私の場合、独身の弟ひとりだし、こんなに、10枚もに及ぶ情報にはならない、かなぁ?
おっと、私の亡父は10人兄弟姉妹だから、、、、そこらへんが多くなるんやろかぁ?

アタマこんがらがってきた。もう書き止めまする。(*^_^*)

2022年2月10日 (木)

春も見ず、

元義母逝去の知らせを、北関東に住む息子経由で知りました。
自宅介護でのコロナ感染とのこと。詳しいことはわかりませんが、家族は濃厚接触となり、立会人無しの火葬だったそうです。

火葬の時間、元義母のことを思いながら手を合わせました。

息子が初めてできたことは自分も初めてできたように一緒に喜んでくれた義母でした。
ずっとそばに居たわけではありませんが、嬉しい時・淋しい時・悔しい時、息子の気持ちに寄り添ってくれた義母でした。
私を畑仕事に誘ってくれた義母でした。

旅立ちは独りだったけれど、ぎりぎりまで思い出ある自宅で過ごせた義母。
コロナで誰にも会えない施設や病院で最期の日々を過ごしたけれど、近所の人達や友人達に見守られながら旅だった母。
どちらが幸せだったのでしょう。

亡き母の介護保険還付金の申請書を投函した帰り道。20220205
用水路沿いのS字な小路で、メジロのつがいが目の前を警戒もせずビユーン!(ま、捕まえようとは思わんけども。。。)
帰宅すると、玄関前の雑草スペースから黄水仙の芽が出ていました。(右写真。どれが水仙の芽か、わかります?)

義母も母も、次の季節を見ずに逝ってしもたんやなぁ。
今年も、春の兆しがあちこちぽつぽつ顔出してますよぉ。

2022年1月26日 (水)

受付番号 1 0 0

「後期高齢者医療保険&介護保険の還付金があるので請求して下さい」という通知が届きました〒。亡母のです。

両方で数千円。それを弟と二分するとはいえ、その額は私が受取っている企業年金の1年分より多い! 少々手間と時間がかかるだろうけれども、申請することにしました。

まずは、申請書類に記入。最近、押印不要のことが多くなりましたね。

申請書類とは、
①相続に関する届出書兼確認書(介護保険)・還付命令書&相続人代表者指定変更届出書(後期高齢者医療保険)
管轄が違うせいだろうけど、保険の違いによって必要な書類が違うとは、しかも漢字の羅列。あいも変わらずなんてややこしいブツブツ(-_-メ)

②口座振込依頼書

③さらに、私と亡母は、姓や住所が違うので、私の戸籍謄本

遠近両用コンタクトと老眼メガネを駆使し、久々に手指を使って字を書く。四苦八苦(^-^;。

やっとこさの書類記入後、戸籍謄本を取りに(買いに?)区役所へ。
いい天気だったから徒歩👣。往復約9000歩。いい具合の距離でしょ? 

受付で受付番号札をとると、、、、20220125
100番! 
なんと切りが良いじゃありませんか!
なんと縁起良いじゃあ~りませんか! 

で、思わずスマホ出し、役所の記入台に乗せて写真をば~。

戸籍謄本は、2通で900円でした。
しつこいようですが、これを差し引いても、企業年金1年分÷2人より多い。

私の、かつてのあの2年間の勤務はこんな額・値打ちやったんやなぁ。まあ、2年やもんな。そやけど、当時、社で初めてワープロ文書作ったんは、私やったんやけどな('◇')エッヘン。。。

なーんて計算とも感傷ともつかん思いを巡らせておると、「100番の方、どうぞ」のアナウンス。

即、申請書類とともに戸籍謄本を封入し、役所前のポストへ投函。

ふぅ~~。これでまたひとつ済んだ。

あとは、、、亡母年金の精算・申請は済んだし、、、、、司法書士さんに力かしていただいている不動産と銀行、やな。

ひとつ、済むたびに、あ~母はもういいひんのやな、と、思い出します✋。

2021年12月28日 (火)

長生き者の葬儀

亡母は、これといって特に持病がありませんでした。歯もすべて残っていました。難聴と少しの高血圧。歩け(か)なくなって、背が曲がり、肉がなくなり、そして認知力がなくなり壊れていきました。

ある年齢までは健康長寿、そこからの老衰と言えるでしょうか?

父の時(享年87)、年寄りの通夜・葬式は明るい雰囲気やなぁと感じていました。親戚関係や仕事関係、お互い懐かしいと思い合う人達が、父の死を機に集まって来られていたからです。昔話にも花が咲いて、同窓会のようでした。

けれど今回は違いました。

母が亡くなった次の日、ほぼ1日かけてお知らせTELをしたのですけれど、「申し訳ないが行けない」が多数。

入院中だから、入居中だから、もう身体が動かないから、看病する人がいるから、仕事があるから。。。
コロナ情勢もあるし、私の話し方・日頃のつき合い具合もあるのでしょう。
もしかしたら、両日とも弟と私のふたりになるかもなぁ、母も淋しがるだろうなあと、すべきことでいっぱいいっぱいの頭のかたわら、これはこれで心が沈みました。

来る来られないは別として、涙してくださったのは、ご友人の方々でした。
一番たくさん来てくださったのは、母のご近所の方々&ハンドベル等で母を誘ってくださった方々でした。この方々は、母が入院・入居中から「いまどうしたはる?」とずっと気にかけ、会うと私にも声かけてくださいました。
親戚の方々は、母と同様もうお年で、亡父の一番下の妹(父は10人兄弟姉妹)の夫にあたる方がおひとり。お願いして、仕事を休んで来てくれた私のいとこがふたり、それと私の息子でした。

家族葬にしなくてよかったです。
家族葬にしたら、コロナで会いに行けないけど今頃どうしたはるんやろうとずっと気にかけ、会いたがって下さっていた方々に来ていただけなかったところでした。

健康長寿で老衰からの、年寄りの葬儀。長生きであるほど、生きてる同世代が少なくなるのだなぁ。同窓会タイプにはならないのだなぁ。
それと子ども・孫が少ない母のような場合、人生の最後の時期につき合っていた人達に悲しんでいただける式になるのだなぁ。

要支援認定あたりから、本当に、たくさん勉強をさせてもらいました。たくさん考え感じることができました。

関東へ帰る息子が私に言ったこと二つ。
「お母さん、テレビの音、ちょっと大きすぎるで。」
「安否確認できる電気ポットとかあるやろ?それ、買うとか。。。」

我が子にしてみれば、私も、心配するに十分な年寄りなんや!そーやったんや!! (*o*)
と空いた口をいったんしめまして、まぁこれからはお財布のゆるす範囲で、自分を楽しませることにしましょう。

体力維持もせねばっ✊('◇')ゞ

2021年12月25日 (土)

ばあちゃん、タトゥー?!

看取り期で日参していた頃、母は、だんだん足先から紫色になってきました。酸素等、もう体の先まで送れなくなってきたための、チアノーゼだと看護師の方に教えていただきました。

もし明日も母が生きていたらオイルマッサージなどしてあげようと、ユーチューブであらかたのやり方を調べました。で、 次の日、アロマオイルを持って行き、母の、骨と皮になった紫の足をマッサージ。ま、自己流。気のせいか、なんだか母が気持ち良さげでした。

もう入浴不可な母を、看護師の方々が母の清拭してくださいました。何人かで、丁寧に、酸素吸入もとぎらさないように。。。

で、その後、母の顔をまじまじ見てみると、、、きれいになってるんです。日々、シワがどんどんなくなってるよう。水分養分とってないのに、むくんでる?濃度の濃い酸素のおかげ? シワは私よりタシカニ少ない!

それと眉が、毛はもうほぼ抜けているのに、カタチが整ってるんです。
どーゆーこと? 
「あの、化粧もしていただいたんですか? ありがとうございます!」と言うと、
「いいえ、清拭でそこまでは。。。」
「でも眉毛、ありますよね、きれいに。」

温かめに湿らせたタオルでぬぐっても、、、あるんです、眉!

そのとき母はすでに話せる状態じゃなく、本当のところは確かめようもありませんでしたけど、これは母が眉をタトゥーしてたんじゃないか、という結論に。意外と、おしゃれやったんやろか。自分の周りで勝手に皆がワイワイ喋ってるのを聞いて、本人はどう思ってたんでしょう。

まぁ、、、息するのに必死で、それどころじゃなかったねぇ。
でも、にぎやかだったでしょ?

あの日、帰宅したら、、、私の足裏が紫色でした。あわててお風呂であたたまりました♨。

 

2021年12月23日 (木)

ひとり歌謡ショー

ようやくアタマん中が空いてきました。あとまだ少し残ってますが、、、。ひとひとり居なくなるというのは、心身質量、そして時間、と大変なことなのですね。とりあえず私、TVドラマの内容は追えるようになってきましたので、ご無沙汰しているブログをば。

亡母との最後の日々のことを書きたいと思っていたのでした。

看護師さん方々の助言は、父の時も母の時も「五感のうち最後まで生きているのは、聴覚」ということ。だけれども、話しかける言葉が見つかりません。最期の最後だというのにね。照れくささもあるのです。あかんね。

で、父の時は、母とふたりで歌いました。父は、アコーディオンやハーモニカ演奏が好きでした。なので思いつく限りの唱歌を。なんと父は、苦しさのなかで、足首から先を動かして、リズムをとってくれました。

先の、母の時、もう今日が最期かもしれないというのが約2週間ありました。今日が最期かもしれない今日が最期かもしれないと思いながら、日参(看取り期は、コロナでも、毎日面会可能でした)。老人ホームのベッドわきにて、毎日、日が暮れるまで、ひとり歌いました。

♪しぃ~ず(静)かぁなぁしーずかな さーとの あぁき~(里の秋)♪
♪名も知らぬ遠きしーま(島)より なぁがれくーる椰子ぃの実ひとつ♪
♪みーかんーのはーな(花)が~ さぁ(咲)いているー♪
♪さーぎーりき(消)ーゆる みーなとえのぉ~♪
♪ゆーきの降る街を~ゆーきの降る街を~ 思い出だけが通り過ぎてゆくー♪

秋の日暮れ時、私が歌うのをやめたら、部屋にある音は、母の、一生懸命な呼吸音。。。

日々歌っておりますと、心こめているのとは別に、飽きてきましてね。そこで思いついたのが、母の好きだったTV時代劇📺。その主題歌です。私もうろ覚えなので、スマホで歌詞を調べてスクショ。

「さー本日は新プログラム! あの、むかしなつかし時代劇の主題歌を調べてきましたよー。」
と、ひとりの客(母)にMCもやりまして、スマホ見ながら歌います。

♪じーんせい楽ありゃ苦ぅもあるさ~~ くじけりゃだれかがさぁき(先)にゆくぅ♪  ←水戸黄門
♪おーとーこだったぁら ひとつに かけるぅ~ かーけーてぇもつれた謎をとくー♪ ←銭形平次
♪気前がよーくて二枚目で~ ちょいとヤクザな とーやぁまざくぅら(遠山桜)~♪  ←遠山の金さん

母はおそらく杉良太郎のファンだった気がするから、
♪人を愛してぇ~人は心ひらき 傷ついてすきまかあぜ(風) 知るだろう~
 いいさそれでも 生きてさぁ~えいれば・・・♪

あ💦 これあかん💦 聞いてる母自身ももう長く’生きて’いられないとわかってるのに、この歌詞あかん!

「この歌、むずかしいなぁ。ヘタな私の歌がよけいヘタになるわ。ごめん。これやめとこ。」
と、大きな声でひとり言。なんて場面もありました。

はい。
これをもちまして、
スマホのスクショ歌詞、削除します✋。

 

2021年11月19日 (金)

あ・い・あ・お の 口

老母が亡くなりました。90才。老人ホームにて。蛇足ながら、寂聴さんと同じ日に。

飲み込めなくなって微熱が続き、かねてより本人の希望もあり、延命治療をいっさい拒否しました。点滴も続けると痰が増えるばかりで呼吸困難となるため、 途中で中止。水分も栄養も断ってなんと13日間、母は、息をし続けました。 酸素マスクの中での自発呼吸です。

息をして、
息をして、
一生懸命、息をしました。

偶然にも、予約していた「老衰死」という本を借りる順番となり、細々と読みながら、母が息をするホームへ通いました。母の呼吸は、この本で書かれてある通りに変化。事前知識となり、少し落ち着いて、息する母の横に座っていられました。ホームの看護師の方々にも、本人は、傍が思うほど苦しくないなど教えていただきました。 徐々に低空飛行となり、母はすーーーっと人生をランディングしました。

腹はもちろん胸も肩も動かせなくなって、下顎呼吸となったとき、私が思わず母に
「ごめんな。ありがとう。」
と言うと、母は重そうな瞼を片方だけようやくうっすら持ち上げて、声出す力はなかったけれど、力をふりしぼって口を動かしました。
「あ・い・あ・お」
の 口。
「ありがとう」
だったと、私は思っています。

かつて「感謝してないのになんでありがとうって言わなあかんねん!」と息巻いていた母に、周りの人達にありがとうって言うねんで、とホームや病院のガラスドア越し面会の時、伝え続けていました。そうしたら、周りの人達も、母にやわらかく接していただけるかなと。

それが、最期のありがとうは私向けでした。悲し嬉しい「ありがとう」。

息をし続けた母とは逆に、私は、約2週間の看取り期間から、未だにややこしい弟がらみの葬儀と事後処理まで、深い息ができなくなりました。意識しても、深呼吸もあくびも。眠れず、動悸が止まらず、脈が耳の中で聞こえ、交感神経活発化💧。

ここ数日やっと血圧も戻ってきました✋。が、まだまだ事後処理は続きます。父が亡くなった時、私ひとりで全部やったつもりでいたけれど、それは葬儀だけで、事後の処理は、母が長いスパンでやっていたということを知りました。202111

母が亡くなる4日ほど前、ホームの人達が仰臥する母を玄関から出してくださり、金木犀の香り含んだ空気を一緒に楽しみました。最後の思い出を作っていただき、その心遣いが本当に有難かった。写 真は、その時、看護師さんが手折ってくださった金木犀やら南天やら。このものたちも、窓辺で母につきそっていました。

母を自宅で介護してあげられなかった後ろめたさ。帰りたい家・思い出つまった家に帰してあげられなかった後ろめたさ。
死ぬときは、昔の人のように枯れるようにという母の希望をかなえてあげられたのは、せめてもの私の心のすくい(?)なのかな。

 

 

 

より以前の記事一覧