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2017年3月

2017年3月30日 (木)

心強きは我が子

息子にとっても祖父の死はけっこう大きなことだったのではないか。 

彼が今までで通夜・葬儀に並んだのは、保育園のときと小学校低学年のとき(たぶん)。 どちらも遊び仲間で、どちらも交通事故だった。昨日までここでそこで一緒に遊んでいた友達が、もうぜったいあらわれないという寂しさ、そして、子どもが亡くなったら親はくるったように悲しむのだということは目の当たりに感じただろう。

だけど今回はもっと身近な祖父であり、正月に会ったときは嬉しそうに優しく微笑んでくれてた人が、次に会ったときは死んで動かなくなっている冷たいカラダになっていたという事実。燃えて、骨と灰になって出てきた(後で知ったことだけれど父の骨年齢は40歳代だった!)という事実。彼なりに思うことがたくさんあったのだと思う。

私は、
息子がおとなになっていてよかった。

すぐかけつけてくれた我が息子は、今回、とてもとても心づよかった。帰宅後すぐだのに、私の話を黙って延々と聞いてくれ、通夜あたりからはこまごまと手伝ってくれた。 あの数日、いちばん頭がクリアだったのは彼だった。 弟の様子も、初めは「別にあんまり。お母さんの言うようには思わへんで。」と言ってたが、だんだんと何かを感じてくれたよう。 わかってくれる人がそばに居るというだけで、こんなにも心のよりどころになるのだなあ。

母(私)が悲しみながら混乱しながらあたふたしているのを見てか、いずれ母も年とっていくと思ったのか、葬儀の後、家まで運転してくれた彼が、助手席に座ってる私に言った。
「もうちょっとしたら、こっち(自分が住んでる町)に来る?」

ぇぇぇぇぇ。私は、いま住んでるとこが好きやしなぁ。 もっとよれよれの年寄りになったら考える。
「よれよれの年寄りになったら、その時には、よれよれになったっていうことがもうわからへんのとちがう?」
なんていうやりとりをしたけれど、今回の彼の有難さ頼もしさを思い、それもありかなと初めて思った。

みなさん、もしかしたらわたし、関東人になるかもthink。。。
いや。
今じゃないっすよ。

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2017年3月26日 (日)

ごちゃまぜごころ

思えば3月は朗読レッスンも行けずじまい。しかたないね、こんな時だもの。

 

と、自分に言い聞かせていた(いえ、家でも練習する心のゆとりがなかった)ところ、先日、母が言った。
 「ハンドベルのレッスンには行ってきた。1回でもレッスンが抜けると忘れてしまうからな。」

 

(・_)エッ....?  ・  ・  ・  。  はあ~~~~?  
 
しかもそれは通夜のたった1週間後だったらしい。

 

また別の日には
 「四十九日が済んだら早く納骨を済ませたい!」
 じゃ、次の日にでも
 「次の日はあかん。京フィルの演奏会に行く。」 

 

はあ~~~~? (゚Д゚)ハァ?  ハァ?
どーゆーこっちゃ。 母はこんな時に趣味が第一かぃ?
まぁ。。。ハンドベルも京フィル鑑賞も、いつも父と2人で楽しんでたことなので、それも関係あるのでしょうか?
しかし私は、父の死に関わる一連のことや、それにまつわる母・弟の言動や、自分の食い扶持(父が私に残したものdollarについての話は全く出ない)のことでアタマがいっぱいのこの数週週間だったことを思うと、なんだか胸にストンと落ちてこない。アタマで理解できない。これは私自身の性格のモンダイか?

 

こころがごちゃまぜ状態。とにかくココロを少しでもスッキリさせたい。

 

と、
あろうことか、私は平安神宮へお参りに行った。帰宅後PCで調べてみたら、喪中50日は神社へ入ってはいけないとか。知らなんだ~。 50日過ぎたらまた謝り参り(?)に行こう。
と、

見つけた聖書。 音読してみた。 これは、いいのだったか?  
そしてここ数日、起床後の自己流瞑想タイムも。 

あ~とにかくココロを少しでもスッキリさせたい。170320__2

そこで見つけた袋麺note。ひと月ほど前、職場でタイ土産にもらった袋麺。「と・・・・・っても辛いですから、家で食べたほうがいいですよ。」と言われ、持ち帰った袋麺。 そうだflair、おいしいものを食べてみよう。
 
辛すぎて食べられなかったらもったいない。 念のため、ラ王とコラボさせた(混ぜた)。  添付のタイ調味料は4分の1だけにした。 

 

ラーメンもごちゃまぜ。

 

めっちゃ辛かったbearing
けど、心が数分タイへ飛んだ。
これはどんな店で売られていたんやろう? タイの人達は、これをどんな顔して食べたはるんやろう? 

 

そうや。
タイは微笑みの国や。

いま私はこれでええわ。

 

けれどココロは未だごちゃまぜ。。。
どーしたらええん? やっぱり時間薬っちゅうやつですかね。

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2017年3月23日 (木)

合間の就活

先週末はアルバイト仕事の最終日でした。170317__3


3つの課にまたがる仕事でしたので、言い換えれば3つの課の人達に教えていただいたり助けていただいたり声かけていただいたりと、大変お世話になりました。 それぞれの課(シマ)にお礼の挨拶をして周り、いただいた花束や持ち込んでた座布団・置き傘・ウェットティッシュ等々が入った紙袋を抱えて、階段を駆け降り~~~、

どこへ行ったと思います?

ハローワークですよハローワーク。
できれば4月からまた働きたい働かねば。 

亡き父四十九日の打ち合わせもあるし、ひとりになった母も気にかかるけれど、とにもかくにも、とりあえずは自分の食い扶持を維持せねばなりませぬ。 すでに決まっていた面接は葬儀等のためキャンセルしておりましたので、急がねば4月からの採用に間に合うところがどんどん減ってしまいます。しかも次の日からは3連休。面接担当者がいなければ、面接のアポもとれません。

どいうわけで、文字通り、走りました、ハローワークへ~~~~run。  荷物かかえて、ハローワークへ~~~~runrun

で、火曜日は面接。と、エクセルのテスト。 
なんだかね。やっぱり精神的に不安定なんでしょかね。終わってみたらばミョーにテンパっちゃってた気がして、あかんかなぁと不安な毎日。 今までは、採用ならば早くに連絡TELあることが多かったのに、音沙汰無し。 やっぱなぁ。あかんかなぁ、って。

今日も今日とて、実家で母とまたややこしい言い合いをし、私は話がなかなか通じず進まないことにイライラし、
母が
「もーーーそんなごちゃごちゃ言うんやったら、一周忌なんか、せえへん!」
となってしまったのを
「そらあかんやろぉ」
となだめ(大声で)、気分はギトギト。 心のもう一方では、あーもー不採用みたいやし明日はまたハローワーク行きやなー、とごちゃまぜ気分で運転していた帰り道。

先日面接したところから採用通知TELshine

ほよぇ~~~~。よか・・・・・・・・・・った。

「いっしょに仕事をさせていただきたいということになりました。」
という、担当者の方の話しぶりにも肩の力が抜けました。

や・・・・・・・たぁ。5月の収入確保!
・・・・ よかった。 ほ。

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2017年3月14日 (火)

ワシがワタシがもう知らん。

弟は高次脳機能障害です。同時に数種類のことを並行して考えたり実行したりできません。聞き言葉と読み言葉の理解が、複雑で長い文章になると困難です。原因は仕事中の事故。退院し、おかげさまで今では普通に一人暮らしし日常会話しアルバイトも見つかったようです。でも、能力的にはもうあまり回復しないことが、父の葬儀でわかりました。 しかも、弟は自分の欠けた能力について無自覚。これが、高次脳機能障害のやっかなところなのだそうです。

母は85歳と半年。弟が退院したころ、右腕を骨折し手術入院。固定するための金属はまだ腕の中に残っていますが、取り出し手術が老人の身体に負担がかかるということで取り出していません。認知症ではありませんが、まぁ老人ということでたまに言うことがヘンだったりします。 難聴です。 ひとに頼るのが嫌いで頑固さが最近増してきてます。

この2人といっしょに、今回の通夜・葬儀・料金等々の打ち合わせや説明が、父がセレマの霊安室へ運ばれた直後(深夜)・次の日(通夜の前日)・当日2日の時々・葬儀の次の日、と続きました。 私達3人は、父を霊安室へ送り届けた時点でもう体と心が疲れていました。私も頭が朦朧としていました。

私達3人が並ぶと、セレマの職員さん達からしたら、熟年の男性つまり弟が、打ち合わせのメイン(窓口)であると思われます。 

弟も今回、自分は長男であるので、中心になって動きたい・しきりたい。 
母は、夫が亡くなったら連絡は自分でしたいし、夫がしたかった形式で通夜・葬式をしたい、とだけ思っている。
けれど、トントンと進めていこうとしているセレマの方は、たくさんのことを説明し、決めていかねばならない。

最初は私も「ゆっくりとはっきりとしゃべってやってください。」と母の難聴を理由にお願いしていたのですけど、それでは葬式・初七日までとてもじゃないけど終わらないことに気づいてきました。 弟は、わからない。母は、聞こえない。両人とも、興味のあるとこだけしか覚えていけない。

たとえば、、、、

【エピソード①】  通夜の前日。 病院への支払い等で、弟がさんざん「ワシがする」と主張したので、言い合いの末、私は引き下がることに決めたその後で。  *セ=セレマの担当者

セ:今回、親戚などへ連絡されたのはどなたですか?

母:私です。

セ:通夜・葬儀・斎場へはそれぞれ何人ぐらい参加されるのでしょう? 料理や供養や斎場への車の手配もありますので。

母:そんな失礼なこと、いつまで参加してもらえますかなんて、とてもじゃないけど聞けへん!私もいままでそんなこと尋ねられたことないわっ!

セ:だいたいで・・・・・。

母:だいたい、も、わからん。

セ:昨夜、連絡するときに尋ねてくださいと、お話してたかと思いますが。。。

母:もー知らん!そんなん言うんやったら勝手にやって。(と、部屋を出る)

セ:それなら、どちらかが電話で聞いていただけますか?

私:弟がするそーです。(私もまだ腹を立てている)

弟:じゃぁ、ワタシが。(満足気)

私:ほんまにできるん? ちょっと練習してみよか? 言うことわかる?(と、セリフをメモして弟に渡す)

弟: (うまく言えない)

母:そんなこと、さしてやらんときっ!

やっぱりあかん。 と、ここで私がセレマ担当者の方へ、弟の高次脳機能障害を伝えました。 担当者の方はちょっと戸惑われたようでしたが、なんせ決定することは山ほどある。決めて所業者へ発注もかけなければならないのでしょう。 窓口は長女(私)と、されたようでした。でも、ふたりのいるところで話を進めないでいるとまた「聞いてない。勝手に決めた」となってやっかい。 二人に居てもらい、時々、繰返し説明と確認をとりながら、セレマ担当者と目くばせしながら、母の話を聞きだしながら、どうにかこうにか、予想で人数を多めに決めました。

【エピソード②】 通夜式の後の食事会で。

この時も、まだ決定しきれてないことや確認したいことがあって、私はセレマ担当者とたびたび話をしていました。また、来ていただいた方々の話(父との関係や思い出話)を聞くのも私でした。 

こんな、父が亡くなったときにも、おなかはすくんですねぇ。ペコペコでした。あー早く座って一口でも二口でも食べたい飲みたい。と思いながら、明日の、親族代表のお礼の言葉も私が言うことにして、相談していると、それまで親戚の方々と話しながら寿司を食べていた弟が私達を見て、こっちにきました。

弟:あの~。聞きたいことがあるんですけど、、、。

セ:(私との間に入ってくださって)なんでしょう。なんでもどうぞ。

弟:柩の中にあの桜(壇にかざってあった)は入れてもらえないんですか?

セ:枝がいっぱいありますからねぇ。身体が傷ついたりするからあまり枝ものは入れないんですけど。 花屋といっぺん相談してみますね。

と、弟は納得してまたテーブル席へ食べに。 そうこうしてるうちに食事会も終わってしまい、私が、残ってる寿司をこっそり食べようとしていると、弟も真似して立ったまま食べ始めました。 みんなが帰ろうとしているときに、故人のこどもふたりがテーブルの残り物を立って食べてる図。 悲しくなって、小皿に急いで盛り、親戚の方々を見送りにいったのでした。姉は食べられなかったんだから見送りは自分が、という判断、してほしかったなぁ。

私が担当者と打ち合わせしていると自分もなにか話そうとしに来る。私が食べようとすると、満腹にもかかわらず自分も負けじとまた食べようとする。 おんなじことを「ワタシもできる」という自己表示なんでしょうか? 私が出ると弟が別のことで出てくるから担当者の仕事が増える。私が引くと、弟も引いているから当然なにも進まない。

次の日、葬式の後、母がセレマへの文句を、私に言いにきました。
「なんで、桜なんか柩に入れるんやろう、セレマは。 あんなもん入れるの、見たことない」と。

担当者の方は、弟の意をくんで、花屋に桜花の部分だけを細かく切ってもらえるよう頼んでくださったのでした。

.

他、病院でもお寺さんの前でも、区役所等の後始末(手続き)のことでも、いろいろいろいろ。。。。。。 いろいろいろいろ。 私にすべて任せてもらえた方が、少なくとも頭はこんなにコンランせずに済んだものを。二人とも、自分がやりたいもんで。 自分でできるように繰り返し時間をかけて私から説明し、メモを作り更新し、じっと見て待つ、時には怒りながら。ううううぅ。

悲しみや喪失感よりもアタマが疲れてなにがなにやら状態。
息子がすぐに駆けつけてくれたのがなにより有難かった。
頑固な老母とややこしい弟が残って、私の立場を理解してくれてた父がいなくなって、
 これからどうしたらええんやろう?

父の死と父の人生に、ひたすら思いを馳せたいです。

こんなときに不謹慎だとは承知の上で、「なに甘いこと言うてるんや、ひとりだけ苦労したみたいに」と思われることを承知の上で、書かずにはいられませんでした。アマイなぁ。

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2017年3月12日 (日)

よう見ときや。

草木や花の名前を私にたくさん教えてくれたのは、父でした。 

 

昨夏、息子のスマホを通して家の中にポケモンが居るのをのぞき、
「こ~んなもんが見られる時代にまで生きてられてよかった!」
と笑顔の父でした。
けれど、2回目の東京オリンピックも一緒に見てやぁという私の言葉には返事を濁していました。

 

もういつ命が終わってもおかしくない、と病院で宣告されてから3年ちかく生きていてくれました。最近は肺癌(余命約半年)も発覚。 さぞや恐ろしかったことかと。。。

 

あの朝、母からTEL。「おじいちゃんが救急車で搬送された。もうあと時間のモンダイらしい。」
看護師さんがTELを変わったようで「時間ではなく、分を争います。すぐ来てください!」

 

思いつくものを持って、車で病院へ。 

 

病院の中の一番良い個室で、朝着ていた服のまま、父はうなっていました。父のそばに寄ろうとすると弟が
「医者の話を聞きますか?ワタシはさっき聞きました!」

え?そんなのもうだいたいわかってる。直径10センチにも膨らんだ腹部大動脈が破裂したのだ。もう助からないのだ。最期の数分かもしれないのだ。もう生きた父には会えないかもしれないと思いながら車を運転してきたのだ。医者の話を今更聞く場合やないやろ。と、思ったが、父を見ると苦しんではいるが‘あと数分’ではないようだったので、とりあえず当直の医師のところへ。

 

話を聞くというよりも、医師に「生きる時間が短くなってもいいから、とにかく今の苦痛をやわらげてやってほしい。それは本人からも以前から何度も伝えられているから。」とお願いしました。

病室へもどると、父は「痛い痛い。だるい。しんどい。」と何度も訴えて(つぶやいて)いました。母・弟と3人で背中や腰をさすりました。痛み止めの薬を入れてもらったのですが、「なかなか効いてきぃひん。痛い痛い。」と父。

この時はまだ会話ができましたので、私は「ここ上等の部屋やでぇ。」とか「さっきな、室温が28℃やったわー。」とか「御池中学の横の桜はもう咲いてるらしい。」とか、父の気のまぎれるようなことを脈絡なく話し続けました。父は痛いだるいしんどいの合間に「へ~。」とか「ほんまか。」とかの相槌をうってくれました。 あんなにしんどい最中に「ああ、そうやって扇いくれたら気持ちいいわ。ありがとう。」と言うてくれました。 

母は難聴なので(補聴器は持ってきてなかった)父がなにか言うたび「今なんて言うてるん?」と聞きます。 私が大きな声で父の言った言葉を繰り返しました。

数時間後また痛み止めを。すると父は少しラクになったようで午後すこし眠り(?)ました。
弟が「ワタシは少し帰って休んできます。帰るなら今のうちやろ。母(呼びかける二人称でも弟はこう言う)も、いっぺん帰ってきたら?」と言い出したので、
えええぇぇー、分を争っていたのではなかったのかーと私は思ったのだけれど、母も「ほんなら補聴器と電話番号書いてある紙とケータイの充電器をとりに帰りたい。」と言い、交替で帰ることに。(これでよいのか?父は良くなったのではないんやで。)

夕方。痛み止め効果がきれてきたようで、また苦しみだしました。実家から父のパジャマも持ってきていたから、少しでも体がラクかと着替えさせました。「息が苦しい。ベッド(上半身)を上に傾けて。下に傾けて。あつい。」と訴え続け、体は冷たいのに汗をかき、だんだん肌が黄色くなっていきました。私はベッドを上に下にとリモコンを操作し続け、母は父の額に置いた濡れタオルを交換し続けました。

そのあたりで、夜の当直の医師が来られ、もう少し強い痛み止めをとお願いしてる間に、父が静かになり、見ると目の焦点が合わなくなっていました。痛み止めや酸素吸入が先だったのかもしれません。じっと私の顔を見ているようでしたが、たぶん見えてなかったんやろなぁ。

看護師の方が「最後までいきているのは聴覚ですから、話しかけてあげてください」と教えていただいたのですけど、なにを話していいのか。 母といっしょに、父がよくハーモニカで演奏していた曲を歌い続けました。「ふるさと」を歌ったときは、右手で弟の手をぎゅっとにぎり、なんと私がさすっていた右足が拍子をとるようにヒョンヒョンと動きました。何曲か歌ったころ、息をしなくなり、しばらくして、心臓も止まりました。

ああきょうは長い一日やったね痛かったねと、母が父に言いました。

夜の9時半でした。

人間が死ぬところをよう見ときや、ちゃんと見たか、と父が言った気がしました。父が、私に最期に教えてくれたのは、これなんやな。
うん。ちゃんと、見たで。

と、気持ちをかみしめる間もなく、死亡診断書は何通いりますか?どこの葬儀屋さんに来てもらうか決めておられますか?という話に。
「もいっぺん帰らなあかん。電話番号がわからへん」と母。
夕方とりに帰ったやん。
「あれはな、明日おじいちゃんと行くはずやった音楽会に行けへんからその連絡をせなあかんと思うて。」
したん、連絡?
「したよ。」

・・・・・。いつのまに。。。。
「じゃあワタシもいっしょに実家へ行きますpaper
と弟が言い出したから、父を置いて三人でこの場を離れたらあかんことを説得し、葬儀屋へ連絡するべくまた実家へと車を走らせたのでした。

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